2015年11月 近つ飛鳥博物館

「ワカタケル大王の時代」

〜ヤマト王権の成熟と革新〜




<主旨>

ワカタケル大王(雄略天皇)時代のヤマト王朝の変容を通観していく。
雄略天皇が勢力拡大に熱心な大王であったことはよく知られ、滅びゆく豪族、それに代わる新しい権力集団の出現について(ここでは主にヤマト王朝を支えた職能集団を指している模様)古墳や副葬品、被葬者の推定からひも解いていく、というもの。

「首長連合の解体」のテーマのところで

吉備、葛城、淡輪の古墳の写真パネルや副葬品が展示されていました。
雄略天皇に鎮圧された地方豪族なので、おそらく、その勢力縮小していく過程を、古墳の規模の変化で読み取って欲しいという意図のもと展示されているのだと思います。が、淡輪のここで展示されている理由が判らない。淡輪に、雄略天皇に対抗しうる勢力が存在したのか?そしてそれは紀氏のことを言っているのか?そこらへんの丁寧な説明が欲しかった。

「畿内における支配体制の変化」では

ヤマト政権台頭により崩壊してしまった首長同盟に代わって登場してくる手工業集団を取り上げる。
すなわち、吉備氏や葛城氏に代わる伴部(大伴氏)や物部(氏)などがそれである。苗字に「部」とついていることから判るように、その集団は渡来の最先端職能を背景に成長してきた集団である。
大伴氏は武力に関わりのある「部」を総括する者に与えられた名称であるし、物部氏は、もとは鉄器や武器を生産・管理していたのがしだいに大伴氏と肩を並べるくらいに力を持つにいたった。
※ただし、物部が戦闘用軍事、大伴が平時用警護というような区別はあったらしい。

ここは、それらの集団の成長過程を古墳から読み取って欲しいという展示ブースだと思う。

ところで、「古墳群」というのには、大まかに2つに分類でき、大王クラスの大きい墳墓が一定地域にかたまっている「古墳群」と、小さな墳墓が何十、何百も、それこそ蜂の巣のように密集している、そういうタイプの「群集墳」の例がある。
後者のタイプの墳墓に埋葬された人々は、おもに渡来系の「職能集団」だと、そういうことが言いたいのだろう。たしかに、「部」=「戸」であり、技能渡来人を戸籍管理したとう説、また、大家族のような血縁関係の濃い職能単位だという説いろいろ言われている。そういう単位の大きさが、蜂の巣の大きさに比例する可能性もあるということなのだろうか。

そして、エピローグ「古市古墳群の変容」へとつなげていく。古市古墳群は、職能集団の群集墳がヤマト政権支配下に置かれていった結果の形だということなのだろうか?

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説明がほとんどなく、何も知らないで見に行くとつまらないかもしれない。自分が何に興味を持っているか、どういうことを知っているかによって評価が分かれる展示方法だったと思います。



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