2015年12月 狭山池博物館(常設展)


もうすぐで6年間住んでいた堺市から引っ越して行く。そう思うと普段見慣れているはずの風景も、勿体無いような気持ちになりしみじみと眺めてしまいます。センチメンタルってやつですね。
これは、堺東駅からの風景。休日の遊びに行く時にしか使わない路線でしたが、もっと色んな駅に降りてもっと色んな堺市を見ておいたら良かったな、と思う。皮肉なことに、堺市を去る時になって初めて狭山池博物館を訪問することになった。いやいや…狭山池自体は何回か行っているんですけどね。

日本最古の人工的ため池こと「狭山池」です。
日本書紀や古事記にその名前が見えるだけでなく、考古学面からもその裏づけが取れているというスゴイ池なのです。さらに改修に奈良時代の行基、鎌倉時代の重源が関わってきたという歴史も持っています。
そんな狭山池のことをもっと知ってみたいよねと思い立ち、来てみたというわけです。

これが狭山池博物館。狭山池のすぐそばに建っています。
まわりの風景を拒絶しているかのようなコンクリートの塊と思ったら、安藤氏の設計!!府立の公共施設はほとんどがこの人のんちゃうかな。
でも狭山池の土手からの眺めは気持ちがいいです。狭山池をはさんで博物館と向かい合っているのが葛城山脈、博物館の後ろに広がっている都市化した平野がおそらく河内平野。眼下に河内平野を眺めつつ、そういえば狭山池から流れ行く川はすべて河内平野を北へ走っていき大和川と合流していたんだったな…と頭の中で河川地図を描いてみます。

いくつかの入り口のうちの狭山池側からコンクリートづくめの建物に入ります。通路の敷石の隙間のところどころに草が生えているのが妙にホッとします。12月の午後の訪問だったので、すでに人影は長くなっていました。
うん。無機質コンクリートも、こういう「相対する」アクセントを散りばめて撮影してみるといい感じじゃないですか。

通路を突き抜けると、こういう建造物を見せ付けさせられます。狭山池をイメージした建物の1つのパーツなのですが、私は、水は建築物の耐久年数を短くするという話はよく聞くのでそっちのほうが心配になります。なにせ、この博物館は入館料が無料、展示の合間合間に休憩椅子もまめに配置しているという心憎さ、トイレも各階完備というすごさ・・・水による老化で維持費がかさばったら、何か経費を削るんだろうか。素人は余計なことが心配になるものです。

下に降りたところから撮影してみました。湛えた水溜りが壁伝いに滴り落ちていきます。水滴の落ちる音が心地よく聞こえるように水量をコントロールしているんだろうな。

=============常設展==============
狭山池博物館内の様子

狭山池を支えてきた痕跡、たとえば遺跡や村落、組織といった、そういう人々の生活の営みのありようを説明した展示が面白い視点だとおもいました。
616年くらいには造営していたであろうと言われる狭山池。河内平野が大きい河川から離れていて水不足になりやすい土地柄であったために、今でも狭山池の周辺には大小の溜池が残っています。ですから狭山池の水管理が、河内平野にとって重要な役割であったことは言うまでもないことでしょう。

狭山池が作られたことで、集落の誕生がどのように広がりを見せていたかが、現在の遺跡から見て取れるという。
中でも面白かったのが、狭山池の堤を利用した須恵器窯が盛んに造られ、須恵器製作集団同士の衝突の話です。すなわち「日本三代実録」に見える、859年に河内と和泉の国の間で民が、須恵器を焼く薪の山(陶器山)を巡って争った記事です。

行基は、改修したどの池にもそばに寺院を建てて管理施設とした。狭山池も例外ではなく、狭山池院と尼院の731年建立記事あるという(「行基年譜」)。

1202年には重源が改修を行なった記事があり、そのため鎌倉時代以降の遺跡は河内平野の西寄りに集中するようになった。
僧が土木技術の最先端に居たことも、水利権を握っていたことも面白い。

1263年、興福寺が狭山庄の支配を認められる。しかし現地支配は池尻氏。

狭山池の北西に築かれた池尻城は水管理と交通上の重要地点を握っていた。南北朝の1338年と1347年は、池尻城を巡って楠木と足利の合戦。

江戸時代初期、片桐勝元による改修で現地監督をしていた池尻孫左衛門が幕府から池守として池の運営と事務の仕事を仰せ付けられ、やがては子孫の田中家が引き継ぐようになる。
樋役人の村として、東新宿と西新宿が置かれた。
改修は、灌漑範囲内の農民の代表である水下総代が事務を担当。
現地監督者がかの池尻氏と関係があったかどうかは不明。

江戸時代中期、狭山池の支配権は狭山藩主の北条氏へ。(1721年〜)

が、1748年に幕府へ支配権を返還。
理由は書いていませんでしたが、外様大名(相模の後北条氏の流れ)がややこしい水利権を操るのは難しかったのかもしれぬと想像する。
財政難にあえぐ幕府は狭山池の利権に口を出す機会がなく、灌漑範囲の水下総代が運営の中心になっていく。

狭山池が競艇場になっていた時代もあった(のちに住之江へ移転)し、すぐ近くの遊園地も閉園して、今はすっかり市民の憩いの場として土地改良区が維持管理を行なっている。

すっかり夜になってしまいました。家近くの歩道橋の寒々しい白光色の電灯が、12月の寒空に冷えた体にいっそう身震いを感じさせる。



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