2016年3月 狭山池博物館

「狭山藩北条氏」

〜戦国大名・小田原北条五代の末裔〜


3月中旬。今回は、奈良県民として堺にやって参りました。狭山池の近くにある相棒の実家へ遊びに行ったところ、花見に行こうって話になり、相棒の家族とランチをしたのち狭山池へ。
風はまだ冷たいけれど春の匂いが感じられ、やっぱり堺は暖かいんやなぁと、奈良県民からの目線になっていることに気づき苦笑い。引っ越したのは奈良の中央部なんですが、桜がまだ咲く気配がないんですよね。

まだ桜は7分咲きといった感じで、満開には少々時期が早かったですが、それでも「春」の気配に気持ちが浮き立ちます。
晴天に恵まれたこともあって多くの人が散策に訪れていました。タンポポやツクシなど足元に春の訪れを探しながら、狭山池を一周します。一周約3kmなので、雑談しながらののんびり散策だと1時間ほどと見積もって良いでしょう。

池に浮かぶ「狭山池神社」。
右に見える白い塔が、有名なPL教団の平和塔です。正式名称は「超宗派万国戦争犠牲者慰霊大平和祈念塔」。PLが何の略語か言える人も滅多に居ないんだろうなぁ(笑) ※ちなみに私は信者ではありません。
そして、背景になっている山々が葛城山脈で、越えると奈良に入ります。山脈の左端っこが万葉集でも読まれている「二上山」です。

狭山池の北西部で見れる西除川の洪水吐です。狭山池から流れていく川はこの西除川と、北東部の東除川があります。
物は言いようで狭山池と言うからには「川を堰き止めた溜池」だと言えますが、ダムでもありますよね。そもそもダムは高い所に造営しないと機能しないんですが、大阪市のベッドタウン化してしまったこの地域は住宅地やマンションがかなり広範囲で広がっています。そのど真ん中に「ダムがある」と言う風に表現すると不思議な感じがします。

洪水吐の働きは水位を保つために水を吐き出している事にあり、流入してくる川があるかぎり常に流れていきます。観光名物になっている富山の黒部ダムなんかは時期を決めて一気に放流するゲートのついたタイプなのですが、ここは自然にまかせて放流するタイプですね。
そして上写真が非常用洪水吐と言い、雨量が多すぎて常用洪水吐では吐き出しきれなく水位が高くなった時に、非常用洪水吐に流れ出るように設計されているんだそうです。さらに小高い土手が狭山池を取り囲んでいます。二重三重の安心安全対策というわけです。

そして再び狭山池博物館です。先日訪れたこのゾーンなんですが、まさに洪水吐をモデルにした区画です。
台風の日なんかは、こっちもすごいことになっていそうですよね。台風の後の狭山池洪水吐の動画を誰かがネットにアップしてくれているので、ご興味のある方は是非。

今回は新しいゾーンをご紹介いたします。洪水吐ゾーンを抜けると写真のように異空間とも言えるべき丸い建築物に出ます。

2階にある博物館への入り口は、一般家庭かというくらい小さなドアがついているだけで全然「ご案内」意識がありません。よく浮世離れしているとか言うけど、やっぱり恐るべし芸術的センス。
受付の女性が言うには、狭山池の給水塔をモデルにしたものだとのこと。

狭山池築造して今年(2016年)で1400年、狭山藩が誕生して400年になる記念として特別展示「狭山藩北条氏」がやっていました。北条早雲を始祖とする相模後北条氏が五代、小田原合戦の赦免により藩を立てた大阪狭山後北条氏が十二代。
展示は5つのテーマにより構成され、内容は「小田原北条五代」、「狭山藩の成立」、「藩主北条氏と狭山藩」、「狭山藩の狭山池支配」、「幕末維新期の狭山藩」となっております。
神奈川県小田原市から北条五代の遺品や絵図、鎧など貴重品をずいぶんお借りしていまして、今回はこちらに力を入れている様子が伺えます。
個人的には「狭山藩の狭山池支配」に興味があるので、藩日記や池守田中家古文書に力を入れているときにまた来たいと思います。そして、なぜ狭山藩は狭山池の支配権を幕府に返還したのかを調べる機会を作りたいものです。

この地図、面白い




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