2017年11月 橿原考古学研究所付属博物館

「黒塚古墳のすべて」




キトラ古墳の壁画発見に沸き立つその前年、もう1つの話題を呼んだ古墳発見があった。
それが奈良県天理市に広がる古墳群の中にある「黒塚古墳」である。発見から今年で20年になったことを記念して出土資料を一堂に展示し、ここ20年の間で黒塚古墳の発見が研究にどれくらい進展をもたらしたかを紹介するものでもある。

黒塚古墳発見の大きな意義は、次の3点にまとめられる。
  1. 盗掘が入らなかった為に埋葬空間や副葬品の配置が綺麗に判る状態で発見された。
  2. 銅鏡が33枚と1枚(合計34枚)という空前絶後の量が発掘された。
  3. 鉄製武器や武具、そして用途不明の鉄製用具が発掘された。

石室内の水銀朱の見事さに息を飲む。朱の塗り方に表現があって、薄く塗っているところと濃く塗っているところがあるという。
特に棺の置かれていた床は濃く今なお朱の発光は色あせていない。朱の濃淡に呼応するかのように多くの銅鏡も濃朱付近で発掘されている。石室の壁に立て掛けるように置かれた銅鏡すべてが、鏡面を内側(棺側)に向けていた状態だったという。妊婦がお葬式に参加するときは「鏡をお腹に当てて巻いておく」風習を連想させる。ただし、私が知る限りでは、その際鏡は外側に向けるというものであるのだが。

三角銅鏡33枚と画文帯銅鏡1枚で、34枚。銅鏡の研究が飛躍的に進み、今では1欠片でどのタイプの銅鏡かまで判るようになっているという。
付属博物館内の本屋には、製作方法の研究や成果をまとめた本も販売していて面白そうでした。
同笵鏡と同型鏡という製造方法の違いの説明があり、どっちがどっちだったか帰宅後ネットで再度確認したら同じ意味のように使うサイトが多く、20年の間における製造法上の研究の発展を見る思いがした。同笵鏡は同じ鋳型から作られた鏡、同型鏡は1つの原本から作った複数の鋳型による鏡。厳密に区別していた。

魏製作か国内製作か文様などで分類する製作地説、卑弥呼が魏より贈られた鏡か否かという大和王権発祥説。
さまざまな分野で議論が交わされているけれど、しかし、私はずっと思っていた基本中の基本的な疑問で、なぜ三角鏡が大和王権のシンボルのように言われているのかというのがある。
その疑問も、製造方法の研究というような基礎的な成果を積み重ねることによって通説が覆されるかもしれないし、定説がさらに定まるかもしれないし、それが今後の楽しみだと思った。

さて、この黒塚古墳は誰の古墳なのか。大和王権発祥の地と言うのなら、どの地位の人なのか。



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