2017年11月 近つ飛鳥博物館
「古墳出現期の筑紫・吉備・畿内」
〜2・3世紀の社会と経済〜
近つ飛鳥博物館への道。
紅葉はすっかり散ってしまいましたが、深くなった秋の冷え込みと湿り気が背筋を伸ばしてくれます。
休日の午後の、ねずみ色の眠たそうな空と、紅葉を通り越し枯葉となりはてた彩りの組み合わせもまた心に染み入りました。
大型古墳が出現する社会的経済的背景を探る、というもの。
各地で交易・交流拠点地となる大規模集落が形成、人やモノの移動が活発化していたことを遺跡や古墳で見ていく。
プロローグ 大型青銅器祭祀から墳丘墓祭祀へ
弥生時代の特徴は集落祭祀・銅鐸祭祀であるのに対し、古墳時代は被葬者限定の墳丘墓が特徴であり有力な人物や集団の出現が想定させられる。
さらに、銅鐸の地域的特長としては、近畿の突線鈕式銅鐸と北九州でよく見られる広形銅矛があるが弥生時代終末には墳丘墓が作られるようになった。に対し、吉備では青銅器から脱却し墳丘墓祭祀用の特殊器台が生まれるようになる。
銅鐸の分布図を見てると、出雲では「四隅突出型墳丘墓」という独自の文化圏を形成していたことが見える。出雲の古墳もいつかは展示をやって欲しいものだと思う。
第一章 筑紫―博多湾沿岸の遺跡群
@ 博多湾沿岸の交易の窓口
- 西新町…交易の拠点(外的)
- 博多遺跡群・今山・今宿…手工業生産の拠点
- 比恵…交易の拠点(内的)
A 先端技術の受容と交流
- 博多遺跡群…鍛冶(ふいご羽口の発見)
- 各地の土器、山陰系の石材、ガラス材も発掘→工業地帯
B 博多湾西岸の遺跡
- 西新町の交易センターとしての機能が集中する前の拠点地だったか
- 今山…製塩遺跡(瀬戸内地系の製塩土器):弥生終期〜古墳初期
- 今宿…対外交易の拠点集落(朝鮮系土器):弥生中期〜古墳初期
第二章 吉備南部―足守川・旭川下流の遺跡群
かつては瀬戸内海が深く入り込み「吉備の穴海」と呼ばれていた
弥生後期後半〜
- 特殊器台、特殊壺による墳墓祭祀の整備
- 土器の様相によりつよいまとまりの形成があったか
@ 足守川下流域
- 津寺遺跡…弥生終末〜急激な大規模化、古墳前期前半には300棟の竪穴式住居、各地の土器多量、首長居館大型建物
吉備南部足守川流域の政治中心か
- 楯築墳墓…弥生後期の西日本の中で突出した首長墓
以降、埋葬儀礼用の特殊器台が用いられる点で時代の画期
- 上東遺跡…波戸場遺跡、足守川流域遺跡群中もっとも下流に位置する
弥生中期〜古墳前期 中国貨幣「貸泉」、朝鮮系土器
- 高塚遺跡…弥生中期形成の集落、弥生終末に中心的遺跡、古墳期初頭に衰退
津寺やその周辺に移動していったか
- みそのお遺跡…弥生後期〜古墳前期、継続的な墳墓の造営
弥生後期〜均質的な集団墓で墓域形成、供献土器はあるが副葬品なし
弥生終末期〜墳墓の区画が明瞭化、玉類、鉄器などの副葬品、特殊器壺の出現
古墳前期〜特殊壺が見られなくなるが1つの墳墓の埋葬数が減少する
→古墳出現前後における造墳原理の変化を知る手がかり
A 旭川下流域
第三章 中河内―河内湖南岸の遺跡群
海跡湖、河内湖と呼ばれる。湖辺に古墳出現期の遺跡が見られる。
@ 加美、久宝寺遺跡群
河内湖南岸は外来系土器が多く流通拠点だったか
手工業や首長墓は見えないが大和川を介した奈良盆地や東南部への流通
- 久宝寺遺跡…墳墓群、副葬品がわずか
- 加美遺跡…弥生終末〜古墳前期
A 東郷、中田遺跡
- 中田遺跡…吉備南部の影響が強い
- 東郷遺跡…向木見型
吉備の特殊器台→奈良盆地の前期古墳における円筒埴輪の祖型
宮山台→小阪合遺跡で発掘、中河内ではここだけ、大和では前期古墳
B 中河内中枢をとりまく遺跡
- 湊遺跡…製塩土器、製塩炉は未確認
墳墓だけではない技術の共通化と波及
古墳出現期の社会基盤の共通化とも読み取れ、興味深い。
エピローグ 交流拠点集落の解体と流通の変化
- 古墳時代前期前半までの間に各地で大規模集落が形成
- 古墳時代前期中頃になると一斉に姿を消す
- 各地のネットワークが崩壊する社会的、政治的変容か
2c後半の倭国大乱を経て卑弥呼の擁立、そして豪族連合から4cの古墳時代(大和王権の黎明期)へ向かっていく約200年の間の勢力図の変遷と拠点間の交流を描く。
交易都市、工業都市、政治の中心都市などと現代の感覚でもって語られているところが面白い。
稲作文化が大陸よりもたされた時代的特徴をもって「弥生時代」と区分し、放牧的な、農耕的な、のどかな時代とイメージする人もいるのであろう。しかし、そうではないのだ。村々にはそれぞれの地理的条件による機能や特徴的な職能を有していた。それが株式会社化していくように1つの組織に組み入れられたり災害などで消失したりを繰り返して、一大拠点地に集約されていくという過程を読ませてくれる展示であった。
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