歴史に憩う橿原市博物館は、すぐ近くに「新沢千塚古墳群」がありそのための博物館として設立されたのであろうと思うのですが、常設展はもっぱら橿原市周辺の歴史通観が中心を占めており、新沢千塚古墳群の展示紹介はそれほど大きな比率ではありません。
少し前に、そこの解説員に面白いことを聞いたのですが、新沢千塚古墳は道路を敷いたことによって真っ二つに切り分かれてしまっていて、飛鳥方面が県管理、橿原方面が市管理というふうに管理主体も別々になっているという不思議な事情があるんだそうです。
市管理の古墳群は管理が行き届いていて歩道も整備、草刈もきっちりやってくださっていますが、わたしは県管理地のほうが好きでした。やや荒れ放題であったので古墳である以前に、市民の自然と触れ合う場にもなりえたし、なつかしい野草も見に行く楽しみもあったのです。
ところが、見に行くたびに、絶望の淵に追いやられる思いをこの胸に抱くようになったのです。
なんなのだ、この観光地みたいなここは。たったの1年で県管理地の整備がどんどん進み、どくだみ草はすっかり姿を消し、訳のわからない草が行儀良く生え揃っている。木々も刈られ、古墳の姿がわかりやすくなった代わりに、わざとらしさがにじみ出てしまった新沢千塚古墳。
そんな古墳のポッコリとしたコブを見ながら、今回もわたしは保護と共存というものについて、きれいごとではなく真剣に考えている。
少しカッとしすぎたようです。閑話休題。
=======寺口忍海古墳群とは======
古墳時代(4C)日本に渡ってきた渡来人や鍛冶職集団との関わりが深い群集墳(造営は6c後半が主)。約200基の古墳。今回は3基を紹介。
赤点が今回訪れた博物館の場所で、黒枠が忍海古墳群の場所になる。(※画像をクリックで地図拡大)
======D27号墳墓(初期)======
5c後半の円墳、6c前半に追葬、2つの木棺(東棺と西棺)。その際、初葬の土器が羨道に集められ、一部が粉々に割られている。右半袖式横穴式石室。馬具の副葬品から寺口忍海古墳群の中でも地位の高い人物か。
東棺=ガラス小玉、刀子、滑石製紡錘車(きめ細かい文様が全面)
西棺=武器、馬具、農工具、鉄刀・鉄剣・刀子(鹿角製装具)
====H16号墳墓(鍛冶具の副葬)====
D27号の後に造営(5c後半〜6c)。破壊激しく築造当時の姿は不明。竪穴系横口式石室。多様な鉄製副葬品(武器、馬具、工具)や鍛冶具。羨道にて1回追葬。
※鍛冶技術※
古墳時代…朝鮮半島製鉄テイ(鉄の延べ板)を輸入し加熱・打つ・切断・加工
- 5c(古墳中期)…古墳に鍛冶具の一部が副葬されるようになる
- H16号墳の特徴→鍛冶具一式(朝鮮半島古墳に類例、渡来工人か)
- 寺口忍海古墳群には他にも8基に鉄滓や鉄塊の副葬→鍛冶工人の葬送儀礼か
※忍海古墳群の周辺※
- 古墳群の南隣〜東方面の遺跡…共通点が多い→鍛冶集団か
- 古墳群の北隣〜北東方面に位置する遺跡…前方後円墳、豊富な副葬品→集落(在地)の支配者層か
- 取り込まれていく過程
======H34号墳墓(追葬)======
6c後半の円墳、右片袖式横穴式石室、2面の玄室床面。
遺体・副葬品ともに追葬の際に整理され、遺体は3体分が石室の袖付近にまとめられた状態で出土。追葬は7c後半(飛鳥後半)、玄室に3基・羨道に1基か。築造後50年後の追葬された人々は初葬の人物とは関係のない、古墳造営ができない人々(家族)だったのではないかと考えられる。寺口忍海古墳群の発掘調査した60基中25基で追葬が見られる。
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★寺口忍海古墳群(群集墳)
- 5c後半〜7c後半
- 円墳
- 横穴式石室
- 渡来系工人(鍛冶)
★新沢塚古墳群(群集墳)
- 5c前半〜6c後半
- 円墳多い、次に方墳、他に前方後円墳、前方後方墳、上円下方墳、長方形墳など
- 木棺直葬、横穴式石室は導入されるものの継続して造られない
- 諸説(蘇我氏、東漢氏、大伴氏)
★巨勢山古墳群(群集墳)
- 5c前半〜7c中頃
- 殆どが円墳、他に方墳、前方後円墳
- 木棺直葬、横穴式石室
- 葛城氏、巨勢氏
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寺口忍海古墳群で確認の横穴式石室のタイプ
朝鮮半島との関係が深い横穴式が近畿に導入された時期からずっと横穴式で作り続けたという特徴がある。
★右片袖式(16基)
★左片袖式(3基)
★無袖式(27基)
- 6c
- 羨道よりも玄室の床面が一段低いという「竪穴系横口式石室」の特徴
- 伽耶系
★両袖式(7基)
- 6c後半〜7c前半
- 奈良盆地における6c以降の横穴式石室の一般的な形態