2017年11月 歴史に憩う橿原市博物館

「寺口忍海古墳群」




キーワードは、玄室への入り口の3タイプ(写真参照)。これは初めて聞いた。それと、鹿角装飾。
袖が右であるとか左であるとか、無いとかにこだわるのは、ただの様式上分類ではなく何かの理由があるのだろうか。石室(もしくは玄室)を造る時に都合がいいとかドアをつけるとか?

歴史に憩う橿原市博物館は、すぐ近くに「新沢千塚古墳群」がありそのための博物館として設立されたのであろうと思うのですが、常設展はもっぱら橿原市周辺の歴史通観が中心を占めており、新沢千塚古墳群の展示紹介はそれほど大きな比率ではありません。
少し前に、そこの解説員に面白いことを聞いたのですが、新沢千塚古墳は道路を敷いたことによって真っ二つに切り分かれてしまっていて、飛鳥方面が県管理、橿原方面が市管理というふうに管理主体も別々になっているという不思議な事情があるんだそうです。
市管理の古墳群は管理が行き届いていて歩道も整備、草刈もきっちりやってくださっていますが、わたしは県管理地のほうが好きでした。やや荒れ放題であったので古墳である以前に、市民の自然と触れ合う場にもなりえたし、なつかしい野草も見に行く楽しみもあったのです。
ところが、見に行くたびに、絶望の淵に追いやられる思いをこの胸に抱くようになったのです。
なんなのだ、この観光地みたいなここは。たったの1年で県管理地の整備がどんどん進み、どくだみ草はすっかり姿を消し、訳のわからない草が行儀良く生え揃っている。木々も刈られ、古墳の姿がわかりやすくなった代わりに、わざとらしさがにじみ出てしまった新沢千塚古墳。
そんな古墳のポッコリとしたコブを見ながら、今回もわたしは保護と共存というものについて、きれいごとではなく真剣に考えている。

少しカッとしすぎたようです。閑話休題。

=======寺口忍海古墳群とは======

古墳時代(4C)日本に渡ってきた渡来人や鍛冶職集団との関わりが深い群集墳(造営は6c後半が主)。約200基の古墳。今回は3基を紹介。
赤点が今回訪れた博物館の場所で、黒枠が忍海古墳群の場所になる。(※画像をクリックで地図拡大)


======D27号墳墓(初期)======

5c後半の円墳、6c前半に追葬、2つの木棺(東棺と西棺)。その際、初葬の土器が羨道に集められ、一部が粉々に割られている。右半袖式横穴式石室。馬具の副葬品から寺口忍海古墳群の中でも地位の高い人物か。
東棺=ガラス小玉、刀子、滑石製紡錘車(きめ細かい文様が全面)
西棺=武器、馬具、農工具、鉄刀・鉄剣・刀子(鹿角製装具)

====H16号墳墓(鍛冶具の副葬)====

D27号の後に造営(5c後半〜6c)。破壊激しく築造当時の姿は不明。竪穴系横口式石室。多様な鉄製副葬品(武器、馬具、工具)や鍛冶具。羨道にて1回追葬。

※鍛冶技術※
古墳時代…朝鮮半島製鉄テイ(鉄の延べ板)を輸入し加熱・打つ・切断・加工 ※忍海古墳群の周辺※

======H34号墳墓(追葬)======

6c後半の円墳、右片袖式横穴式石室、2面の玄室床面。
遺体・副葬品ともに追葬の際に整理され、遺体は3体分が石室の袖付近にまとめられた状態で出土。追葬は7c後半(飛鳥後半)、玄室に3基・羨道に1基か。築造後50年後の追葬された人々は初葬の人物とは関係のない、古墳造営ができない人々(家族)だったのではないかと考えられる。寺口忍海古墳群の発掘調査した60基中25基で追葬が見られる。
==========================

★寺口忍海古墳群(群集墳) ★新沢塚古墳群(群集墳) ★巨勢山古墳群(群集墳)
==========================

寺口忍海古墳群で確認の横穴式石室のタイプ
朝鮮半島との関係が深い横穴式が近畿に導入された時期からずっと横穴式で作り続けたという特徴がある。

★右片袖式(16基) ★左片袖式(3基) ★無袖式(27基) ★両袖式(7基)




博物館めぐりに戻る