2017年12月 橿原考古学研究所付属博物館

「十二支の考古学」



子、牛、寅、卯、辰・・・で知られる十二支に関する考古資料を展示しています。毎年、新年の動物にちなむ展示をしてきて、昨年で一巡迎えたのだそう。
締めくくりで今年は十二支のまとめと、日本画家の上村淳之氏と藤本静宏氏による橿原神宮大絵馬原画展がやっていました。
上村淳之氏が十二支の絵馬を描いてきて一巡したため橿原市在住の藤本氏にバトンタッチしたのが2011年。作風の違いを味わってください的な展示もありましたので、ご興味のある方はいらしてください。

ここで面白いと思ったことをいくつか備忘書きします。

隼人石という、頭が動物で体が人間という図像を線刻で象った石塔があります。いわゆる獣頭人身の絵姿なわけですが、近畿地方では聖武天皇の陵墓に設置された「隼人石」が有名らしくて、説明看板によるとそれが「隼人石」と呼ばれるようになったのは江戸時代からなんだそうです。
「延喜式」に載る隼人が宮中に仕えて警固の時に犬吠をするという記述から、獣頭人身像を隼人と連想し「隼人石」と呼ばれるにいたったのであろうが、隼人が犬の仮面をつけたという事実はないとのこと。

江戸時代というのは、まことに面白い時代で、意味に意味を求め、さらに意味を求めるという時代でもあったように思えます。
私が見たことのある江戸時代の言説に「狛犬の由来は、隼人にある」、「天皇の守護の原型は隼人にある」という説明が、やたらと江戸時代にもてはやされているわけですが、恐らく、ナショナリズムと日本書紀および古事記重視の風潮が重なってしまったことと関係が無いとは言い切れまい。
そこから神道、国学が生まれて、やがては明治の幕開けを迎えるわけですが。

何も知らない私は「隼人石」という名前を見て、むしろ磐井氏の石人像のことかと連想したんですけど、聖武天皇陵墓の彫られている絵図を見たら、キトラ古墳における獣頭人身像とそっくりでした。絵図と対面して思ったことは、「隼人石」という名前がついたことが、隼人への差別意識を表現したものだったんだろうなということです。

それからもうひとつ、興味を持ったのが「箒」です。
「子日目利箒」、「子(ね)」つながりということで正倉院で保有している箒を復元したものを展示していました。
わたしは源氏物語の箒木巻しかイメージがなく、空蝉という地方豪族?仕官?の若い奥様に横恋慕した光源氏が一夜を共にしたにも飽き足らず追いかけ続け、手が届きそうになるとふいといなくなる空蝉に「あなたは信濃の伝説の箒のようだ(遠くから姿が見えるが近づくと消えるという)」と歌った歌が有名です。
その箒木から作ったと思われる「箒」は、贅を凝らして造られていました。へえ、こんなに贅沢なものだったんだ。使い道もちょっと面白い。蚕室を払う儀式に使われるんですって。宮中に蚕室というのが不思議な感じがしますね。



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