2018年03月 橿原考古学研究所付属博物館

「博物館野外展示を散策する」


近所であるため何度かお世話になっている橿原考古学研究所付属博物館ですが、特別展示の訪問ばかりでいまだ一度も庭を散策したことがありませんでした。
そもそも、公開書庫を利用したいというのが本日の目的でした。せっかくだからお庭にもお邪魔しに行きます。

※下写真の博物館は別日に撮影したものです。

畝傍山をバックにする橿原考古学研究付属博物館(以下「橿博」と略、研究所は「橿研」と略)です。すぐ近くには神武天皇陵もあり、橿原神宮、体育館や運動場が立ち並ぶこの辺り一帯は草樹木がとても豊かなため、空気がひんやりしています。

橿研の初代所長は末永氏で、狭山池博物館や大阪歴史博物館などあちこちの施設でよくその名前を見ます。そのはずで、橿研の産みの親と言っても過言ではない存在でした。

戦時中の1940年(昭和15年)を神武天皇が即位してから2600年目にあたるとし、イデオロギー推進と相まって様々な記念行事が画策されていました。
その一環として、神武天皇陵のそばにある「橿原神宮」も境内拡張や施設整備のために120万人が「建国奉仕隊」として土木工事に従事していました。司馬遼太郎氏も「建国奉仕隊」として駆り出された事があり、どこかの随筆に苦々しく回想した記事がありました。
ともかく、皇紀2600年に間に合わせなければならないとせっせと働く建国奉仕隊達。土木工事の最中に多くの土器が出てきますが(縄文後期と言われる「橿原遺跡」の発見)、次々と破壊し打ち捨てていく。そのような光景を目の当たりにし、心に深く衝撃と焦燥感を受けた末永氏によって橿研は産声を上げることになります。

※以下、カッコ内の文章は説明看板から要約したものです。

★「竜田御坊山3号墳(7世紀中頃、斑鳩町竜田御坊山)横口式石槨」
「内部には漆塗の陶棺があり、棺の中からは青年男性の遺体と琥珀の枕やガラス管状のものが出土した」という。
橿博の奥にシャッターの上がった倉庫があり、その中には上写真の古墳が1基保管されていました。
蓋石の頂部分を観察するに別の岩を被せているのかと思いましたが、一枚岩で穴を穿っているようです。この頂部分の石の感じは、益田岩船の未完成部分の粗削りに似ています。作りかけの石槨だったのでしょうか。それとも頂部分はあまり気にしていなかったんでしょうか。

石槨の蓋もまた中途半端に制作したような感じがあります。はめこむせりだした部分の上が少し高く凹み具合が足りないので、うまくはめれないのではと思うのです。はめこんだ状態の写真も欲しいものです。

穿った穴は完成しました感がでていますね。とても綺麗な平面です。副葬品などから皇族クラスの人を葬ったのではないかと言われているそうです。いびつさと端麗さを兼ね備えたこのアンバランスな石室は、いったいどういう事情で…と空想が膨らみます。

★「束明神古墳の復元石槨(奈良県高取町)」
「昭和59年発掘調査した束明神古墳の実物大のレプリカ。天井と入口部分は推定による復元、同質の凝灰石を使うなど忠実に再現」したものです。橿博の正面玄関の斜め向かいに建っています。
初めて橿博に来た時は焼却炉だと思っていました。今どき珍しいなとしか思っていなくて、橿博の近くに引っ越してから「これは古墳だったのか」と気づいたんですが、中をのぞき込むと素晴らしい空間がそこにありました。

どうでしょう、綺麗に切りそろえた石を平面のように綺麗に積み上げ、天井にむかって急斜面をつけています。これでよく崩れないものです。緻密な加工とバランスが要るからこそ凝灰石だったのでしょうね。

しかし、外側から見ても、崩れないようにどう「加工」を施したかが判りません。切り石が長方形だったり、台形だったり色々混じっているのは何か意味があるのだろうか。気になったので帰宅してからネットで調べると、「黄金分割の比率」なるものが使われていると紹介しているサイトが多いのです。そもそもどこに黄金分割比率が使われているの?
そっから相棒と五角形やら四次元やらドラえもんのポケットやらアインシュタインのロマンについて語り合うというとんでもない方向に行き出してしまいました。で、結局、黄金分割比率ってどこにあるの?
今度、博物館の人に聞いてみようと思います。

★「珠城山1号墳(6世紀後半、桜井市穴師)組合式石棺」
「前方後円墳であった1号墳の後円部の横穴式石室内にあった凝灰岩製組み合せの箱形石棺」。低くて小さい石棺です。とても若く未発達であった肉体を格納していたのでしょうか。石棺の蓋が丸みを帯びている点が美しいです。

横からの撮影。損傷が激しことが分かります。穴があいているのは盗掘坑でしょうか。また、蓋が乗っているほうが高く、左に行くと下に傾いていて高さが均一に揃っていないように見えます。しかも、足元か枕元の壁になるはずの左側の壁(A壁)の高さと合っていません。

判りやすいように上からもう一枚撮影。倒れている切石が見えますが、これもまた高さが合わないのです。こちらはA壁よりも、もうひとつ高い。そうなると蓋が置けなくなるのでは…何かちぐはぐな感じのする石棺です。現場から持ってくる時に組み合せかたを間違えてたりして(笑)

★「深谷1号墳(7世紀中頃、桜井市忍阪)組合式石棺」
「榛原石の板石を精巧に組み合わせた石棺で、小型円墳の横穴式石室にあり、棺内からは多数の人骨が出土」されました。後世どんどん追葬して再利用していたのでしょう。はめ込みがそれぞれの角に1箇所ずつついています。今はぐるぐる巻きにして崩れないようにしていますが、はめ込み1箇所だけで保てていたというのはやはり精巧に作られていたんでしょうか。
忍阪は、古墳群や古寺が集中しているので一度は行ってみたいものだと思っています。

こちらの石棺は説明看板がありませんでした。珠城山1号墳よりさらに小さく、薄い板岩を組んだ棺でした。まるで子供の棺のような。こちらは緑泥片岩なんだろうか。それにしては白っぽく見えるのは表面が風化しているからなのでしょうか。こんなにも薄く削れるもんだ、と感心してしまいます。

★「オスゲ10号墳(7世紀前半、桜井市高家)横穴式石室」
「自然石の石材で石棺状の玄室を作り、羨道を取り付けた簡略化した横穴式石室で、羨道の東壁は後世の補修」とのこと。玄室がとても小さいので石槨と言ってもいいくらいで、もしかしたら石室から石槨への過度期に位置づけられるのかもしれません。7世紀前半と言ったらざっくりと650年くらい。推古天皇や舒明天皇の時代ということになり、もうその頃には出現しかけていたんですね。

他にも未整理の石造物がゴロゴロと並んでいます。それらを眺めながら散策するのもお勧めです。 また、橿博の中庭にもいくつか石造物が置いてありまして(見るには入館料を払う必要があります)、そのうちレポートできたらなと思います


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