2018年05月 奈良文化財研究所 飛鳥資料館

「あすかの原風景」


※画像クリックでpdfファイルが開き、裏面も読めます。

奈良県には考古学会をリードする二大勢力、橿原考古学研究所と奈良文化財研究所が存在しています。
いつもは「奈良県立橿原考古学研究所附属博物館」のほうに足を運ぶのですが、今回は展示名に興味をそそられて「独立行政法人国立文化財機構 奈良文化財研究所 飛鳥資料館」に行ってきました。
あえて、フルネームで書かせて頂いたのには理由がありまして、この二大勢力は管轄名が違うことから判るように性格が異なる組織だと言う風に言われています。
よく言われているのが、「人の橿考研、組織の奈文研」。1人1人の才能を発揮させる橿考研であるのに対し、組織力・チーム力を活かす奈文研だということです。ホームページにも雰囲気の違いが出ているような気が…する?

飛鳥資料館のすぐ向かいにある「天極堂テラス」へランチに寄ります。この日は降りだしそうな空模様だったので、お客さんもまばらでした。葛うどんや葛スイートが売りなのですが、今回はサンドイッチとサラダバーでお腹を満たしてから見学に行きましょう。

「あすかの原風景」

写真展と古地図展 2つのカテゴリーに分かれていました。

写真展のほうは、60〜70年前(1950年代)の風景が主です。 恐らく、1970年〜1980年代に次々と発掘された高松塚古墳やキトラ古墳を契機に、明日香村は農村から観光都市(考古保存都市?)へと一気に変貌を遂げていったのだと思われます。その変貌の過程は今なお続いていており、近所の牽牛子塚古墳や県管理の新沢塚古墳が今まさに開発の波にさらされています。

朝市でお世話になっている明日香村に古くから住んでいる方は、牽牛子塚古墳なんてのは昔は石室に出入り出来て子供の遊び場だったのだと言います。
確かにあすかの原風景の写真展を見ていると、今や国指定を受け柵で囲み、入場料を支払わなければ見れなくなった「石舞台古墳」に、小さな子供たちが数人登ってスケッチブックを広げている白黒写真があるのです。
写生会のメッカだったらしく、登って絵を描いていたものだったという話を良く聞きます。

それから目を引いた写真がもう1つ、数人の村民が畦道を通っていくその背景に、低い山々が並んでいます。
その山々がなかなかにハゲているのです。今は見えない山奥が産廃として利用されていて禿げていたりしますが、当時は身近な山がハゲていても気にならなかったのでしょう。むしろこっちのほうが健全な気さえしてきます。
昭和の写真なのでハゲかたがまだマシで、明治や江戸はもっとひどいハゲかただっただろうことは、容易に想像できます。主要なエネルギー資源だったのでしょうから。

最近、「地図を読む」という事に強く関心を持っており、古地図コーナーも楽しめました。

★明治八年改正地引絵図面(明日香村所蔵)
雷村の地番を記す。北は右。土地の用途に合わせて区画の色塗りを分けている。
明治6年 公布の地租改正条令
定額の地租を徴収するために土地の測量、地価の決定 そのために作られた地図
当時、奈良県内の行政区分として用いられていた大区小区制による飛鳥地方の表記(第四大区三小区)が併記されている。

★高市郡雷村地図(明日香村所蔵)
明治18年 地押調査の訓令により土地の再調査が進められ作られた地図

★高市郡飛鳥村実測全図(明日香村所蔵)
小字名と地番が載っている。北は下。2000分の1の縮尺。
土地の用途に合わせて区画を色分け
「明治22年 奈良県地籍検査済證」の朱印が見える。
県内で広く作成された。明日香村内でも20点発見されている。
明治22年3月制定の土地台帳規則による「土地台帳付属地図」
(現在の法務局にある「公図」に相当するもの)として作られた。

(明治21年 市制・町村制により、従来の町村は「大字」に、複数の「大字」が合併して「村」に)


「地形がどのように変わってきたのか」、「昔の地名は何だったのか」が古地図を見る主な目的でしたので、地租徴収のために調査し作られた地図という視点が新鮮です。「何のために作られた地図なのか」。
廃藩置県の流れの1つで公布された「地租改正条令」(藩毎に異なる税率から全国均一の税率へ)が明治6年であり、明治22年の土地台帳規則までの約15年の間に、実に3回も地図を作っているのです。
そのことはまだ税制か土地制、もしくは両方ともが未熟で、整備していく過程であったことを意味するのではないのでしょうか。



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