2018年10月 名古屋市博物館

「古代アンデス文明展」


始まりは唐突だった。近つ飛鳥博物館へと向かう途中、カシ女がアンデス文明展のポスターを持ってきたのだ。そこからお互いのポジションの違いによる争いへと発展していく。
文献至上主義のカシ男は、眼鏡を少し持ち上げ「文字こそすべての歴史だ!文字のない歴史は存在しない!」そう叫んだ。
考古学絶対主義のカシ女は目じりをつり上げ吠える。「遺物があってこそだ!文字など一部の歴史にすぎない!」
私たちの主張は平行線を辿り、近つ飛鳥博物館の棒ベンチで答えのない泥沼の戦いを繰り広げた。
この決着を名古屋で!!

名古屋に行く前に古本祭りで購入した「歴史読本アンデス文明」で予習をしました。
アンデス文明とは、南米大陸の太平洋側を縦断しているアンデス山脈の中央部から北部にかけて起こった文明であります。
文明の起こった大まかな場所が分けられていて、海岸地区、高原地区、山岳地帯(人が住めない)、それぞれ北部、南部に分かれております。
チャビン→モチェ・ナスカ→ワリ・ティワナク→シカン・チムー・インカと文明は移っていき、チムーはシカンを滅ぼし、インカはチムーを滅ぼしたのですが、シカンより前の文化は戦争で滅びたのか災害で滅びたのかは分かりません。
そして、インカ帝国が1572年にスペインに滅ぼされたことによりアンデス文明は消滅してしまいます。

※クリック拡大(カシ男の脳内図)

アンデス文明の特徴的なものとして、鉄、車、文字がありませんでした。しかし、金の加工技術や石の加工技術には優れていて、豪華な装飾品や、数々の石造りの建造物を作っております。文字の代わりにはキープと言われる紐を使った記録形態がありました。

特に石の加工に関しては気になるところがあり、岩を石で叩いて成形していたようで、叩いた鉄が欠けるほどの硬いホルンフェルスなども出土しているらしい。
この優れた岩の成形技術などが少しでも分かれば、日本の古墳の石材加工の参考になるやもしれないと思って期待を込めて見てまいりました。

アンデス文明展のポスター。リャマがマチュピチュを見下ろしている写真がとてもいい雰囲気をだしている。標高2400mの高地にあるこの遺跡は何に使われていたかは分からないらしい。

今回うかがったアンデス文明展では、美術系のものがたくさん展示されていたのに写真撮影OKだったのに驚いた。それが理由なのかは分かりませんが観覧者がたくさんおられました。

まず序章としてアメリカ大陸への人の流入の展示から入っていきます。
下の写真は展示No1の石器でございます。黒曜石だと思いますが、日本でもこのような石器がたくさん出土しておりますよね。石器時代の縄文人はサヌカイトの場所を探しながら移動したという話も聞いたことがあります。
人が生きていく上で最も大切な物が水と石ではないかと私は思っております。つまりアンデス人もこういう使えそうな石が採れる所を渡り歩いていたということだと思います。

「第1章 アンデスの神殿と宗教の始まり」

「カラル遺跡・コトシュ遺跡」は紀元前3000〜前1500年頃の遺跡です。人型や人の手の土器などが展示されていて、何らかの儀式に使っていたと推定されるので、祭祀センターと書かれていました。
この頃には定住生活をしていたようで、木綿で網を作って小魚を食べていた事が調査から分かったと書かれていました。ただ、詳しい内容は書いていなかったので通説という感じで考えておきましょう。

「第2章 複雑な社会の始まり」

紀元前1300年〜前500年頃には、北部高地南端のチャビン・デ・ワンタル遺跡を中心とするチャビン文化が各地に広まりをみせます。宗教的な統一がみられ、その文化は北部地域にとどまらず、南部地域にも広まっていったと考えられています。

主に人や動物をかたどった石造物や土器、金の装飾品が展示されておりました。この時代にすでに金を細かく加工しているのも驚きですし、人や動物はコミカルに楽しい感じで描かれています。
下の写真は「蛇・猫科動物土器」です。取っ手のようなものは鐙型と書かれていて、ここから液体を中に注ぎ込めるようになっています。この鐙型はチャビン・モチェ・シカンの展示にはあったのですが、他の文化には無かったので北部地域独特のものなのでしょう。
この写真の土器は赤く焼成させてからグラファイト(黒鉛)を塗り黒く光らせていると説明されていましたが、その他の土器もこちらのものと同じくツルツルしているのです。日本で見る土器はザラザラなので非常に不思議なのですが、土の質の違いなのでしょうか?それとも、釉薬のようなものを塗っているのでしょうか?
石造物ではテノンヘッドという神殿の外壁に飾られていた石像が気になりました。人が徐々に猫型動物に変化していくさまを現しているそうなのですが(猫が人に変わる様の可能性もある)、この石像が天理博物館で見たオルメカの石造物に似ているのです。アンデスの北部地域が中米と関係があった証拠なのだと思います。

「第3章 さまざまな地方文化の始まり」

チャビン文化はいつの間にか消滅してしまい、紀元前200年〜後800年頃には北部海岸にてモチェ文化、南部海岸ではナスカ文化が出現します。

北部海岸は平地が広く、灌漑事業が発達しました。その中で生まれたモチェ文化は軍事的性格の強い社会だったといわれています。
展示品を見てみると、チャビンの影響をそのまま受け継いでいるようで、鐙型土器や猫科の動物の金細工などがありました。技術が上がっているのか、より立体的に表現されているように思いました。
このモチェ文化は研究対象となるサンプルが多く、のちのアンデス国家の原型が見られることから、もっとも研究された古代文化だったようです。

ナスカ文化は南部海岸の乾燥地域で発達しました。平地が狭くモチェ程の生産力は無く、神殿や集落の規模も小さかったといわれています。
展示品は土器と布製品が主でした。下の写真は魚の絵の皿とコカ入れ袋です。描かれているものがチャビン系とは違い、魚や蜘蛛、鳥などになっていますし、シンプルに特徴を描く書き方になっています。北部地域との生活感の違いで、興味の対象が変わり見え方も違ってきているのでしょう。
布はふっくらと丈夫そうですが材料が何かは書かれていませんでした。
私でも知っているほど有名なナスカの地上絵ですが、ナスカの台地は一面黒い石に覆われているので、その黒い石を取り除きその下の酸化していない地盤を露出させて書いているそうです。この地域はとても乾燥していて雨も少ない事により地上絵は2000年もの間保存されました。
このモチェ・ナスカ文化は6世紀後半の気候変動により消滅していってしまいます。モチェは詳しく分かりませんがシカンへと繋がっていき、ナスカは高地へと移動しワリ文化へと影響を与えていったようです。

「第4章 地域を超えた政治システムの始まり」

紀元後500年〜後1100年頃の時代へと移ります。南部高地ティティカカ湖付近に於いてティワナク文化、中部高地に於いてワリ文化、北部海岸ではシカン文化が興ります。

ティワナクは3800mの高地にあるので、植物が実りにくく芋を主に栽培していました。しかし、それだけでは足りないのかリャマのキャラバンを組織して色々な所に派遣し、様々なものを入手する体系を作り上げたことで繁栄していきました。
展示品は石造物と土器が主でした。土器の質や描かれた文様(鳥の絵やコカを噛む男)等はナスカのものと似ている気がしました。
もう一つのティワナクの展示として、ティティカカ湖に浮かぶパリティ島の遺跡から出土した土器が面白いです。下の写真の上がティワナクで、下の写真がパリティ島出土の土器です。
パリティ島出土は表裏両面に絵が描かれており、模様も細かいように思います。このほかにも人型の土器もあり、それらはアマゾン系の文化の特徴(口ピアスやヘッドバンド)が表現されているのです。
何故ここにあるのかは分かりませんが、アンデス山脈を越えたアマゾン低地の人達と交流があったことを意味しています。
ティワナク文化はティワナコ遺跡からみれるように石の加工技術に優れていて、滑らかな石材を積み上げて神殿を作っていました。その技術がのちのインカ帝国へと受け継がれていきます。

中部高地より発生したワリでは、インカにつながる道路網の発達や都市型の大集落が成立しました。キープという記録形態もワリの時点で存在したようです。
展示品は壺や鉢、キープなどでした。下の写真のように壺に描かれた「杖を持つ神」はティワナクと同じ信仰で、土器の模様なども似ていることからティワナクの一部と考えられている時代もあったようです。
展示品からは感じられなかったのですがナスカの影響も土器に現れているようで、今では確実にティワナクとは別の文化とされています。
ティワナクとナスカの文化を吸収したワリは北部地方にも影響を強め、シカン文化へと影響を与えています。なぜここまで大きく影響が広がったかについては謎ですが、ティワナクのようにキャラバンを派遣していたのか、とも推測されているようです。
そんなワリも理由が分からないまま突然崩壊しました。

北部海岸で興ったシカン文化は、モチェとワリの影響を受けた文化であります。職業分化が成立していたシカンは初期国家の段階に達していたといわれています。特徴的な文化として、冶金術に優れていて、青銅や金製品が量産され、今、ペルー産の金製品といえば80%以上はシカンに由来しているそうです。
その金製品もたくさん展示されておりましたが、私が気になったのは下写真の頭蓋骨と土器でございました。頭蓋骨には日本の古墳時代初期にもよくみられる辰砂が塗布されております。死者にたいして同じような行為をしているのがすごく興味深いです。
もう一つ気になった土器の説明ですが「中期シカンの土器は、磨き上げた黒色光沢仕上げが最も有名である。しかしこの単注口壺はベージュ色の泥漿(デイショウ)がかけられている。」と書かれていました。黒色光沢仕上げとはチャビンの土器で見た、グラファイト(黒鉛)のことであると思われます。
それに対して泥漿という技術も使われていたようです。ネットで泥漿を調べて見たところ、成形後の土器の素地の上に泥漿を塗り、その上から鉄やマンガンなどの色素材料を塗ってから焼くようです。これと説明文を考えると、鉄系の不純物が入り、やや赤みを帯びた泥で泥漿を作っていたという事になるかと思います。この技術がツルツルの土器を生み出している元になっているかもしれませんね。
シカンは技術に優れていただけではなく、エクアドルやコロンビアとも交易をしていたようです。ここでは取れないスポンディルス貝やエメラルドやアンチモンなどの鉱石も交易によって得ていました。
ティワナクやワリのキャラバンもそうですが、活発な交易ルートがこの時代には確立していき、後の大帝国へと繋がっていくのだなと感じます。
そんな優れたシカン文化も新たに起こったチムー王国によって滅ぼされてしまいます。

「第5章 最後の帝国・チムー王国とインカ帝国」

1000年前後にワリとティワナクが崩壊していき、北部ではチムー王国が勃興し、南部ではインカ帝国が勢力を伸長させていきます。
この両帝国は周辺民族を征服していき、最終的にインカがチムーを滅ぼし大帝国になりました。しかしそのインカもたった168人のスペイン人に滅ぼされてしまい、アンデス文明は終焉を迎えるのです。
チムー、インカ共に展示品は少なかったのですが、これまでの文化のものを受け継いでいるようなものが多かっただろうと想像できます。
金の遺物に関しては、スペインに占領されたことで金が大量に溶かされた為に展示物が少ないのだと書かれていました。

「第6章 身体から見たアンデス文明」

最後の展示はミイラの展示となります。こちらは撮影禁止になっていました。
アンデスでは死体は放置しておくと自然にミイラになるそうで、死者に対する感覚が私たちとはまったく違っていたことでしょう。
そのためにミイラに分厚いマントを着せて、生前と変わらず一緒に生活していたようです。おそらくある身分以上の人に対してだけ行われた行為だと思いますが、詳しい内容は分かりませんでした。ただ、髪だけが黒いまま残っているのがとても印象的でした。
このミイラを保存しているところがペルーのチリバヤ博物館というところですが、ネットで検索してもペルー南部にあるということ以外は分かりませんでした。おそらく色んなところで発見されたミイラをチリバヤで保管・調査しているものだと思われます。

初めてのアンデス文明展でありましたが、非常に楽しめました。かなり気張った分、最後のチムー・インカをスルー気味に見てしまったのが少し心残りではあります。
そして、来る前から疑問に思っていた、石の加工や文字が無い事に関して新しい視野を広げることにはつながりませんでした。むしろ土器のツルツル感や自然とミイラになるという新たな謎が深まったばかりでありました。
美術系なので仕方ないのかもしれませんが、もう少し研究度合いなどが書かれていれば理解しやすくアンデス文明への一歩となったかと思います。

名古屋博物館を時間一杯の5時まで見学し、外に出た時にはもう薄暗い空へと変貌していた。私たちは疲れた脳を休ませる為コメダ喫茶店で休憩をした。
カシ男は言った。「文字なぞなくても人が生きた歴史はしっかりあるもんですな。そこからどう読み取っていくかが問題ではあるが、私が間違っていたかもしれぬわ。」
カシ女も情けをかけて言う。「でも、文字が無いと詳しい事が分からないよ。人が生活していた事は分かってもあくまでも推定でしかないからね。」
こうして私たちの抗争は終わりを告げた。遺恨はすべて名古屋の夜の街に捨ておく。名古屋の町もアンデス同様違う文化を持っているのだ。遺恨を捨ておくにはちょうどよいところではあるまいか。





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