2018年11月 元興寺

「大元興寺展」


緑がほんのりと映える柔らかな陽差し、すき間からもれ出る少しの明るさを全身で感じるため伸びをした。また、今年も博物館の秋がやってきた。
今回は元興寺という少し珍しいお寺の博物館へと向かう。
体は軽く弾んでいるが、気持ちは少し重い。何故かというと、元興寺が立地する奈良市にはあまり良いイメージを持っていないのだ。

移動する電車の中で「街道を行く・司馬遼太郎」を読んでいたところ、そこに面白い話しが書かれていた。司馬氏が三河の高月院に行った時の話しで、
「ここは映画のセットのような塀や建物が建ち、旗を何本も並べ、和讃をテープで流しまくっていた。」
これに関して思う事があるようで、
「これはちかごろ妖怪のように日本を俗化させている町おこしという自治体の正義の仕業だ。そして私の脳裏にある清らかな日本がまた1つ消えた。こんな日本にこれからも住まなければいけない若者に同情する。」
と、このように書き歎いていた。本日、今まさに行こうと思っている奈良市という所も、司馬氏のいう妖怪が住んでいると私は思っている。果たしてどのような妖怪が待ち受けているのだろうか・・・・。

駅前の人々でごった返す商店街から坂道を登っていくとそこそこ町並みが見渡せる高台となり、「元興寺」も一番高い台地にあります。この高台の一帯が元興寺の旧境内地で、町屋の雰囲気を残しているため「奈良町」として観光客の人気を集めています。
町屋を利用した商店もたくさんあり、私たちも町屋で昼食をとったのですが、お値段はかなりのもので、「鎌倉価格」以来の衝撃「奈良価格」を目の当たりにすることになりました。(ちなみに鎌倉では珈琲1杯900円(税抜)。ブランドでもなんでもなく普通のアイスコーヒーであることは特記すべき事だ)

そんな「奈良町」は、1451年の戦火で「元興寺金堂(本堂)」が焼失し、その跡地に人々が住み着いたのが始まりだと看板には書いてありました。が、ネットで調べて見たところ徳政一揆があった様です。

東大寺や興福寺と並んで、南都七大寺の1つに数えられる「元興寺」です。石碑に「元興寺」に続いて「極楽房 僧坊」と彫られています。それは、中世以降、元興寺内にあったいくつもの諸堂が衰退していったのに対し、浄土信仰の隆盛にともない僧坊を大改造して極楽房にし、それが独立した寺院のように大きく成長していったという歴史が影響しているのです。
ですので、宗派が異なる3つの元興寺が同じ奈良町に存在していても不自然ではありませんでした。元興寺極楽房(極楽堂)が真言律宗、元興寺塔跡(観音堂)が華厳宗、そして元興寺小塔院跡(吉祥堂)が真言律宗です。
南都六宗や南都七大寺とは教科書で習いますね。奈良にある六つの大きな宗派という意味だと私は思っていました。しかしそうではありませんでした。
この「○○宗」という概念は、明治時代に作られたものだと言えるかもしれません。浄土信仰によって大きくなった極楽房には「律」が入りこみ、さらには太子信仰や弘法大師信仰も入って来ます。じゃあ何宗なの?では、きっと理解できないでしょう。

※元興寺の前身は飛鳥寺で、瓦の一部が今も使われていると言う。

パンフレットにはこう書いてあります。平安時代後期になると、官寺を保護していた朝廷の権力が衰えたこと、天台・真言宗が台頭したこと、権門寺院からの抑圧があったことにより、元興寺は衰退の道を辿ったと。
東大寺と興福寺は広大な荘園を巡って在地武士と衝突を繰り返したが―これは、お寺にとっては生き残りをかけた努力だったとも言えるのですが―、それに対して元興寺は、庶民信仰と深く結び付き様々な信仰活動を生み出す事で生き残ったようです。

※廃仏棄釈の名残か。元興寺を支えた庶民信仰の跡。

滋賀県大津市に中畑田という地があります。そこは、元興寺の僧が修築した港「和邇泊」と北陸道が交わる拠点として和邇駅が置かれていただろうと推定されているところです。
面白い事に愛知の猿投窯産の緑釉陶器や歪みの含むB級灰釉陶器が出土され、物流拠点を示しているというのです。和邇泊を修築した僧は造営修復等の社会的事業・福祉的事業を盛んに実施していたとも言います(静安・護命)。
福祉にとっても重要である交通拠点の確保という活動のスタイルは西大寺の叡尊・忍性を彷彿させます。
極楽房に興正菩薩叡尊像(西大寺蔵像を本歌として多くの御影像が生み出された)が安置されていましたので、西大寺と元興寺がそれぞれ相互に強い影響を及ぼしあっていたであろうと想像できます。

※多くの人が極楽往生を祈願して寄進した。

東大寺や興福寺とは違う方法で活路を見出した元興寺は、智光曼荼羅(8C製作と言われる)と浄土信仰がセットとなり中興します。
この智光法師という人物の説明を見て私たちは目を見張りました。この方は河内飛鳥出身だったのです。帰ってから調べて見ると、河内の郷土史家、三木氏の遺跡説明カードにこのような事が書かれていました。
「常林寺址(近飛鳥寺)。飛鳥集落から寺山へ登る堂の谷にあり、古瓦等が出土します。飛鳥戸神社の宮寺で行基の開基となります。聖武天皇勅願寺で智光法師の古蹟と言われている。智光は日本霊異記に河内の人安宿郡鋤田寺の沙門なり、俗姓鋤田連、後に姓を上の村主と改める。(注:極楽房には鋤田連を父と書いていた)母の氏は飛鳥部造なりとあり、この地に深い関係のあったことが知られます。飛鳥戸氏の氏寺であったと考えられます。」
私たちには馴染み深い河内飛鳥の出身で、寺山付近のお寺にいたということにびっくりしました。鋤田寺からどういう経緯で元興寺へと移ったかは分かりませんが、この智光法師が描いた智光曼荼羅が元興寺の目玉として使われて宣伝されていったのです。
そして、現在でも同様に使われ、私たちも目の当たりにすることになったのです。

そんな元興寺ですが明治以後はすっかり廃れてしまい西大寺に吸収されていたようです。それを昭和になり辻村住職が建て直して現在に至ります。

元興寺は檀家が居ないので、今も経済的に苦しいという。だからなのか展示品のそばにパンフレット等を置き、そこに〜○○円〜と値札をつけていた。そんな中の1つに目を引くものが存在した。須田剋田画伯の作品集である。須田氏は終戦後の元興寺修復に賛同していて、元興寺のパトロンとなっていたのだ。その昔公家がしたことを画伯が代わりに行っていたのである。
奈良の山という山を駆け巡ったとされる須田画伯。そんな人が応援していた元興寺とはいったいなんだったのだろうか?それは、きっと秋の陽差しが如く、淡い光を放ちながらも蓮の花のようにはかなくも消えていく、そんな幻だったのかもしれない。

日は沈み、ぼんやりと浮かぶ山影を遠くに眺め、嬌声とまぶしい光を放つ町を歩く。
種々雑多な人たちにもまれながら先ほどの元興寺極楽堂を思い浮かべてみる。喜々として町を歩く人たちが極楽堂にお金を落としていく。戦後の修復に賛同した人たちとは違い、その人達は影のような存在であり常に入れ替わっている。
これが妖怪という現代のパトロンの姿なのだろうか・・・・。もし須田画伯が生きていたとしたら、きっとなんの関心も無く風呂に入り、「さあ!」と両腕を大きく広げていたことだろう。

《参考》「大元興寺展」出陳目録 会期:2018年9月13日(木)〜11月11日(日)



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