2019年02月 奈良国立博物館

「鎌倉時代の唐招提寺と戒律復興」


大和国には華の都大奈良と言われるところが存在する。世界各地から魔性の者たちが集い、白日の下にも関わらず雄たけびをあげ、その騒々しさたるや我が日本国ではないようである。
魔物が住まう地に於いてマナーなどは存在せず、人は快楽を求め、鹿ビスケッツを使い動物たちを意のままに操るのである。
しかし、これこそが人がもつ本来の生命力であり想像力なのだ。マナーの名のもとに縛られた私たちは精神の解放を求め、この土地「奈良」へと足を運んだのであった。

今回奈良博物館へやって来たのは覚盛展が開催していたからです。叡尊と協力し自誓受戒をした人物でありますが、詳しい事はさっぱり分からず、どんな人物であったのか少しでも知りたかったのであります。
同時開催されていた東大寺の「お水取り」展も非常に面白いので、皆様方も是非この荒々しい生命の地「奈良」で興味深い展示を見にきてください。

パンフレット ※クリック拡大


覚盛展の開催を見に来たのですが、お水取り展が場所を取りすぎていて、覚盛は隅の一角や廊下を使ってのこぢんまりとした展示となっておりました。
狭い部屋の入口で唐招提寺の説明を軽く書き、貞慶(解脱上人)〜覚盛(大悲菩薩)〜證玄(円律上人)とそれぞれの肖像画が展示され、時代ごとに事柄を追っていきます。
貞慶により戒律復興が目指され釈迦念仏会を毎年開催していきます。
覚盛は写経に精力的に取り組み、学問的な復興を果たしたと紹介され、写経本がたくさん展示されていました。
最後に證玄が法会や伽藍の再興や修理を行い、その為か證玄の墓(西方院五輪塔)は南都律僧では叡尊、忍性に次ぐ大きさでありました。そして忍性から東征伝絵巻を送られるほどの仲でした。


肖像画を見ていると、貞慶は無精ひげを生やし痩せ衰えている遁世僧のイメージで描かれ、覚盛は法衣を着用し、上畳に座り経机の書に目を落とす学問好きのように描かれ、證玄はさらに立派な法衣で椅子に座り三鈷杵を持ち、威厳があるように描かれています。
すべて室町時代の作品であるので、この時代に唐招提寺の由緒を整理し、それぞれがどんな人であったのかを確定させたかのようであります。
現代でもいかにもありそうなタイプの世代交代で、苦労し疲れ果てた初代、共に苦労したが余裕の出てきた二代目、贅沢になってしまった三代目、そして・・・没落。
全体的にこのような流れが見てとれるだけで詳しい展示というものでは無かった気がします。あまり資料がないというのもあるかもしれませんが、覚盛に関してか、又は戒律についてもう少し踏み込んだ展示にするべきで、東征伝絵巻や證玄の骨壺の説明はサラッと流す形にし、覚盛が写経した経典について詳しく述べていけばもっと面白かったと思います。

毎年、覚盛上人の命日に中興忌梵網会が行われ、法要が終わった後に参詣者にうちわをばらまく「うちわまき」という行事があります。蚊も殺さなかった覚盛上人の伝説による行事なのですが、そのばらまかれた「うちわ」で著名人のサインが入ったものが廊下に飾られておりました。司馬遼太郎の「春風」と書かれたうちわや、須田剋太の赤がやたらと強烈な椿のうちわなどもあり、見ていて少し面白かったです。



続いてお水取りの展示も見ていきます。東大寺お水取りに関してはまったく興味がないのでスルーするつもりだったのですが、見ていると面白い部分もあり、かなり時間を割いて見てしまうことになってしまいました。

出品目録 ※クリック拡大
「お水取り」(修二会)は十一面観音に「悔過」するもので、その対象となる大観音と小観音は秘中の秘であり僧でも目にすることはできません。
そんな十一面観音は江戸時代の火事で持ち出された像の一部と平安後期の図像集により、わずかにうかがい知ることしかできません。

東大寺は実忠和尚が開祖であり、「二月堂縁起」において実忠和尚が十一面観音を迎えた話と二月堂で行法をするきっかけが絵で描かれております。
それとは別に実忠和尚が自らの業績をまとめた「東大寺要録」もあります。
お水取りを開催するために色々とアピールしておかなければならなかったのでしょうか。

「二月堂衆中過去帳」には東大寺がお世話になった人達の名前が記載されておりました。赤点をちょこっとつけられた天皇や将軍よりも一行全部使って名前を書かれている人達が気になりました。
「造東大寺勧進大和尚位南無阿弥陀仏」、重源。
「造東大寺惣大工宋人陳和卿善慈」、陳和卿。
費用を勧進してきた重源ですが、東大寺大仏を平安時代は修理できる鋳物師がいませんでした。そんなときに宋人である陳和卿が宋の技術をもって修理をしてくれたわけですね。
他の僧侶たちには何らかの名前があるにも関わらず、重源の大和尚南無阿弥陀仏はすさまじい名前ですね。それほど恩に感じていたということでしょうか。

修二会の本行が始まる前日の夕刻に、「大中臣祓」をおこない練行衆全員の身を清めます。
何故中臣で祓わなければならないのか非常に気になりますね。これも藤原氏の圧力なのでしょうか。

すごく混み合うと聞くお水取りですが、説明を見てみると少し見てみたい気もします。1300年もの間続けてきて、途中周りにアピールしなければならないほど開催が困難になることもあったでしょう。それでも続いているというのは、何か人を惹きつけるものをもっているということになろうかと思います。
今回の開催では、正倉院展にはまったく及ばず、観覧しに来た方も中国人が多かったと思います。今まさに東大寺には試練の時が訪れているような気がします。国際化に取り組み乗り越えてゆけ、魔性の東大寺!



博物館めぐりに戻る