2019年02月 有年考古館

「江戸時代の村の風景」

〜有年村絵図展〜


赤穂から千種川に沿いに北へ三里ほどだろうか、千種川に矢野川が合流する地点がある。そこが有年という町だ。江戸時代には山陽道がここを通っていて、宿場町として栄えたであろう場所である。
山間の開けた土地であるからか古代の遺跡や古墳も数多く発掘されており、遺物は有年考古館というところに保管されている。
その有年考古館で展示されている器台と、橿原市の四条遺跡において出土した器台とが似ていて、実物を是非見てみたいと思いやってきたのである。


朝の9時、寒風吹きすさぶ有年駅に到着し周りを見渡してみる。四方から尖った山々がこちらに向かって来るかのように存在感を主張してくる。
山に囲まれた狭隘な平地を東西に線路と国道が走っている。その上をけたたましい音と共に走る貨物列車やトラックは、まるで山の圧迫から逃れんとばかりに気ぜわしく通り過ぎていく。
そんな浮世にありがちな光景に背を向け集落の中へと入って行く。集落とはいえ田畑の中につぶてのように民家が点在している程度の町なので、一人の人ともすれ違う事は無かった。
そんな道を20分程歩いていくと、千種川の土手の手前で有年考古館へと到着する。
有年考古館は地元の医師である松岡氏が建てたもので、元々は山羊小屋だったそうだ。それを改修しただけの博物館であったので「日本一小さい博物館」と揶揄されたが、松岡氏は逆にそれを誇りにしていたという。
そして、当時も今も無料で入館できるという素晴らしい博物館なのだ。


伺った日は特別展示である古地図展がやっていました。
小さな博物館の中で、奥の一画を使って展示しているためそんなに量は多くなかったのですが、洪水や区割りなど江戸時代の生活の様々な部分を見せてくれます。

※クリック拡大
こちらの絵図は「御退場絵図」となっています。「御退場」に関しては貴人が避難する場所と推測されていて、この場合、洪水が起こった時には右上にある明源寺や教専寺に行きなさいよ、ということらしい。

※クリック拡大
こちらは洪水の絵図となります。有年大土手を作り洪水対策万全で殿様の避難場にも指定されていた明源寺が飲み込まれてしまっています。
現在でも人の力によって万全にしたところが案外脆かったりします。こちらの洪水もおそらく想定外の大きさでやってきたのでしょう。

この赤枠の説明書きを加えた絵図と、何も書きくわえられていない元の絵図を二枚展示してくれていて非常に見やすいです。
他の展示絵図もこのように分かりやすくしてくれているので楽しみやすいと思います。


さて、常設展へと移りましょう。
下の写真は水銀朱と三角縁神獣鏡ですが、有年町では無くて隣町である上郡町の西野山古墳よりの発掘品です。この付近で三角縁神獣鏡が出土したのはこの古墳だけだそうです。


古代の山陽道は有年ではなく上郡を通っていたので、前方後円墳も多数発掘されているそうです。
その調査・保存に松岡氏が関係したものがこちらの博物館にも多数展示されておるわけです。


ここからは小さな展示室にたくさん展示されていた器台を見ていきましょう。


上の写真は至ってシンプルな器台ですね。弥生終末期と書いてありました。
下の写真の須恵器が橿原市四条遺跡で発掘されたものと似ています。四条遺跡の器台も△の穴で模様をかたどっていたのです。
この写真の器台は庵寺山古墳よりの出土なのですが、古墳自体の詳細が分かっていないと説明板に書かれていました。


比較用に橿原市四条遺跡・四条古墳より出土し、憩う橿原博物館に展示されていた器台を3つ見てみましょう。

1つ目の器台は、憩う橿原博物館の常設展に展示されている須恵器です。この須恵器が5世紀後半頃(古墳中期〜後期)のものと考えられているものです。有年のものよりもずんぐりむっくりで不器用だからこその重厚感がうかがえますね。


あと2つの器台は特別展により展示されていたものであり、そちらの方がかなり手が込んだ造りをしていました。
写真撮影禁止という無情なる措置によりメモ書きの絵を掲載してみます。
メモ左側の細い土器のような絵は新沢塚古墳160号よりの出土品です。赤丸で囲んだ部分が気になるので下に拡大の絵を書いています。横に溝のようなものを掘り、その中に紐で線を張っている感じになっています。みるからに手間がかかりそうな作りになっております。
メモ右側のものが四条2号墳よりの出土品になります。こちらは土器の平面部に紐をつけて盛り上げた形になっております。波線も丁寧に描いているし、穴も△の形のものがたくさん穿かれております。
新沢160号が6世紀後半、四条2号が5世紀後半の推定となっております。


有年の器台展示へと戻ります。
下の写真は器台かと思っていたのですが、台付長頸壺と書かれていました。弥生時代後期のもので、五本線と渦巻き模様が特徴的です。


上写真の器台群も弥生時代後期のものとなります。特に左上のでっかいものが特徴的で、渦巻きの模様がとても綺麗に貼りつけられております。



これらの特徴的な模様を拡大してみました。
かなり凝っている事が分かりますでしょうか?横線はうまく盛り上げていて、縦線は別の紐を作りくっつけている。一番下のものに至っては線まで書いてるし、渦巻き模様も2つつなげているのです。

橿原市のものは古墳時代中期〜後期頃の出土品で、有年周辺部のものは弥生時代後期のものだそうです。
技術やセンスがどうとかではなくて作品を作る事に時間をかける事ができる状態にあったことがここからみてとれるのではないでしょうか?
生きる事に余裕ができるくらい豊作が続いたのか、または奴隷などを大量に得る事ができたのか、なにかしら他の地域では見られないような事があったのだと思われます。

有年考古館にはほかにも興味深いものがあります。
相生市若狭野町の横口式石槨の写真。漬け物の重しに使われたり、地蔵堂に祀られたりしていた銅鐸の鋳型。沖田遺跡で見つかった土馬など。人によってはもっと注目するべきものもたくさんあることでしょう。
上の写真が地蔵堂に祭られていた銅鐸の鋳型。石製は古い時代のもので珍しいらしい。
この銅鐸が発見されるまでの変遷が面白いのです。
展示されていた新聞記事から抜粋いたしますと、
「約60年前に赤穂市上高野地区の方が千種川河原に落ちていたものを漬け物の重しに使っていました。十年ほど使っていたが鈕の穴の部分が頭のように見えるので地蔵尊の頭部ではないかとなり、石を拾ったところに地蔵堂を建ててこの鋳型を祀っていました。しかし、最近になり御影石で新しい地蔵尊を作ったので、この鋳型は脇に立てかけてありました。それを松岡氏が見つけたものです。」
このように色々な使われ方をして現在では博物館に展示ということになったのです。非常に面白いものです。

全体を見て回った後、先客に説明をしていたこちらの博物館の解説員がご教授くだされた。女性の方だったのですが歴史好きのようで出土品の事を色々と教えてくれます。教えてもらっただけではなく付近の古墳マップのコピーまで頂き大変助かりました。
ご指導を受けてて少し気になったのが、有年原・田中墳丘墓です。パンフレットを見て咄嗟に「帆立貝式古墳だ!」と言ってしまったのですが、「それは古墳時代の形式でこれは弥生時代。前方後円墳になる前の古墳がここです。」と、このような感じでおっしゃっていた。
なんだか帆立貝式と言われるのが嫌だったようです。何か理由があるのでしょうか?聞けばよかった・・・・。

そんな解説員の方が興奮して教えてくれたのが「放亀山古墳」という前方後円墳です。赤穂市では初めて発見された前方後円墳で博物館から目で見える所にあったようです。
そんな前方後円墳の現地説明会の資料も頂き、さらにこの周辺で徒歩で行けるような古墳の見どころなども教えていただきました。お勧めしてくださった野田2号墳の祇園型石室に見に行けなかったのが残念であります。

「日本一小さい博物館」と言われた有年考古館は、珍しい展示物がところ狭しと詰まっています。
そして、それを解説する熱き解説員もおられるし、なんといっても無料です。今後この有年考古館がどんどん広まっていってほしいものです。
最悪の事態として想定される、赤穂市立博物館に合併されるという憂き目にだけはあわないように祈っておきます。


博物館めぐりに戻る