2019年07月 近つ飛鳥博物館

「寛弘寺古墳群と紺口県主」

〜古墳時代の地域と王権〜



本日は喜志駅前のラーメン北京で昼食を食べてから博物館へと向かう。少々しょっぱかったが中華料理は食べやすくてとても良い。

少し曇りがちな空のように私の心にも小さな影が差している。博物館に何度も立ち寄ったが、昔の事など解明される事などないからだ。それでもまたここへ立ち寄ってしまった。そう、人の興味は尽きる事がないのだ。
今回は少し変わった視点である「県主」というものを紹介している。あまり聞いたことが無い言葉で非常に興味をそそられたのである。

※クリック拡大

この日は珍しく写真撮影が可能になっていた。収蔵品が大阪府内のだからであろうか?

文献に見られる「県主」とは?

ヤマト王権に従属した地域勢力で重視された地域が「県」と言われ、そこの長が「県主」である。
現在の大阪府(摂津・河内・和泉)においての県主は「高槻・三島県主」「八尾・三野県主」「柏原・大県主」「藤井寺・志貴県主」「富田林・紺口県主」「和泉・茅渟県主」が存在していた。
その中で今回は「富田林・紺口県主」にスポットライトを当てての開催である。

寛弘寺古墳群とは?

配布されていた解説シートによると、河内長野から流れてくる石川と、千早から流れてくる千早川が合流する地点に向かって伸びている丘陵があり、その北部周辺に造営された古墳群である。石川の流れをそのまま北へ行くと世界遺産に指定されたばかりの古市古墳群に到達し、途中、東の丘には国内有数の群集墳とされる飛鳥千塚古墳群や一須賀古墳群が存在する。
このように周辺の有名な古墳群に囲まれるがゆえに、印象の薄い寛弘寺古墳群ではあるが、4世紀から7世紀にかけて継続的に古墳が造営され、さらには古墳造営が終わった後も土器棺墓が9世紀にわたるまで作られていることから、この地域において有力だった勢力の墓域なのではないか?ということである。

大部分が修復部分の今回の目玉埴輪

古墳時代前期

4世紀後半、富田林地区の古墳として、北部に於いて三角縁神獣鏡が発掘された大きな古墳(真名井古墳・庭鳥古墳)が存在し、この古墳はヤマト王権に関わっていると推測されるが、その他の地域では小規模の円墳が築かれただけである。
同じころ、富田林地区の南部に位置する寛弘寺古墳群では丘陵の北側を中心に古墳が造営されるも、初期の古墳では埴輪は出土しておらず、徐々に出土してくるようになったようだ。寛弘寺古墳群でも鏡が出土して展示されていたが、三角縁神獣鏡ではないものだった。この頃はヤマト王権と関わり合いがあるとは考えられていないようである。
埋葬施設は箱形木棺や木棺と書かれていたが、どのようなものなのだろうか?


左・馬型埴輪?右・鶏型埴輪?

古墳時代中期

5世紀に入ると丘陵の東側を中心として古墳が造営されていく。大型の造出付円墳・円墳・方墳が作られるようになり、円筒埴輪や形象埴輪などが多く出土してくるようになる。
上写真のような形象埴輪を使った葬送儀礼がヤマト王権の特徴のようで、南河内の多くの古墳では埴輪を使う例は少ないのだとか。つまり、5世紀に入りヤマト王権と強く関係をもったと推測されているのである。
このころの埋葬施設は割竹形木棺へと変化し、出土した須恵器は下写真のように細かいデザインを描くようになっている。

須恵器・はそう


古墳時代後期

6世紀前半は木棺直葬だったのだが、中頃より横穴式石室の古墳が作られるようになり、6世紀末にはかなり集中して作られているようである。ほとんどが10m以下の小規模墳であるが、15mをこえる古墳も複数あり、古墳によっては家型石棺や馬具、武具など様々な副葬品が出土している。ここから考えて一般的な後期群集墳のような均質的な集団の墓域ではないと推測しているようだ。
7世紀後半に古墳造営は終了するものの、須恵器を使った土器棺墓という全国的にも珍しい方式を使い、8世紀、9世紀と続いていくのである。

一般的な後期群集墳という定義がよく分からない。均質的なという言い方も少し変だが、1つの職業に従事していて、王権からの配給によって生計を立てている集団と考えてよいのだろうか。

お勉強になった酸化炎焼成の土師器

全体の感想

酸化炎焼成の土師器というものが展示されていたので、これは何なのか?と聞いてみると、須恵器のように削って成形し、土師器のように焼いたものらしい。野焼きではないものの、須恵器のように密閉されたわけではないようだ。これを聞いて、土器の新しい見方を知った。須恵器と土師器で用途も違ってくるらしいのだ。土器といえども奥深いものである。

今回のテーマである県主といわれるものがよく分からなかった。ヤマト王権が重視するからには、それなりの生産物が無ければならないと思うのだがどうなのだろうか?均質的な集団でもないとすると、兵力か人口が過剰にあった地域ということでよいのだろうか?
そういうことを想像していくためにも、簡単な時代背景とか地域の特性の説明や、他の県主の紹介などがあればもっと良かったと思う。

そして、自分たちがよく見る古墳群というものが有名なものばかりで、名が知れているわけでもない寛弘寺古墳群でも他の古墳に比べて特徴があるのだという新しい見方がもてた。また色々な勢力が小さな地域で共存していたということも面白い。そして、今回切り捨てられている小規模なその他の墳墓といわれるものは、県主でも無ければどんな勢力の墳墓になるのだろうか?そういったものも今後解明し、私の心の影を取り除いてもらいたいものだ。

今回はなんと写真撮影がokでした。せっかくなので気になるところは撮影し、いつものようにメモも共存させてみることに。新館長の力なのかそれとも今回だけたまたまなのか次回も様子をみてみようと思います。
ここに限った事ではないのですが、わざわざ禁止するほどの文物でもないと思われるし、また博物館を広める為にも写真なんかどんどん撮ってもらったらいいと思います。




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