2019年07月 葛城市相撲館

〜けはや座〜


憧れの当麻寺に詣でた後、休憩の為に立ち寄った相撲館けはや座。
相撲はあまり知らないので、有料展示ブースに入るつもりは全く無かったが、気が変わりせっかく来たのだからと見学してみることにした。

入室してみると写真のような土俵がデーンと目の前に広がっています。40トンの赤土を使用して叩き固めたものらしく、思った以上に高くて広いと感じました。

土俵の上に靴のまま上がることもできます。40トンもの土が凝縮されているだけあってかなり硬いです。素足でやってたら足の裏はすりむけて火傷してしまいそうです。土俵に上がるだけでもかなり足の裏の皮を厚くする必要がありそうで、力士の修行の辛さがよく分かります。
土俵の隅には塩も用意されており撒くことができますし、着ぐるみも置いてあり、相撲体験もできるようです(問い合わせが必要)。
このように高い土俵に立って塩を撒くだけでも気分がいいものです。


一階で土俵を満喫し客席の中の階段を登り二階へ向かいます。二階は相撲の歴史の陳列コーナーになっています。

このような写真やポスター、さらには雑誌など様々な資料が展示されております。野球と同じように体を鍛え国の為に戦う、といったような宣伝にも使われていたようですし、相撲取りが軍隊へ慰問巡業にも行っていたようです。


日本書記に記されている、当麻蹴速と野見宿禰の相撲勝負を絵にしたもの。
垂仁天皇の時代に力自慢と評された二人が天皇の御前で対決をしました。二人は足をあげて蹴りあったが、野見宿祢が当麻蹴速のあばら骨をあっというまに蹴り折り、腰骨を踏み折って殺してしまったそうだ。天皇はこの勝負の褒美として当麻蹴速の領地を野見宿禰に与えたそうです。
出雲出身の野見宿禰は、三輪山麓の、現在の桜井市出雲地区にも領地を持っていたようで、そこには野見宿禰の塚などもあります。また桜井市には相撲神社もあり縁の深さを感じます。

その後、どこでどうなったのかは分かりませんが、桓武天皇の代から相撲節会という恒例の行事となったそうです。確認できる一番古いものは聖武天皇の時代らしいので、相撲じたいは時々開催されており、ルールなどがしっかり整備されて恒例の行事となっていったのでしょう。


江戸時代初期までは力士が周りを囲み、その力士たちの人垣の中へ相手を放り投げれば勝ちだったのですが、その人垣が喧嘩の原因になるとして、俵を使った四角い土俵や丸い土俵などが出てくるようです。
近代に入ってからも変化があり、特に気になったのが見合いの制限時間が無かった事です。その時は1時間も立ち合わない事もよくあり、それがラジオ放送が開始されると時間制限を作り、聞いてる人達をちゃんと楽しませるようになったそうです。
ここの展示を見て、今我々が見ている相撲が本当に最近になってルールが整備されてからのものだとよく分かりました。


相撲館の前の通りには當麻蹴速の塚が築かれております。相撲館の資料には平安中期以後のもので「当麻真人国見」であろうとも、あるいは「当麻八郎為信」だとも書かれていました。念のため受付の人に聞いてみたところ、資料を下さりました。
昭和40年に読売新聞に連載されていた「諸国相撲帳・江馬盛/著」という資料には、聞き取り調査で「鎌倉時代の役人の墓」とか「藤原なにがしの墓」として書かれていました。実際のところよく分からないということだと思います。
しかし、それ以外にも宿禰の出生地の事や決闘した場所の事など、色々と書かれていて大変面白い資料でした。興味がある人は受付の人に聞いてみるべきです。サッと出してくれたのでコピーされたものが用意されていると思います。


相撲に興味が無くても楽しめる資料館です。知らないと思っていても、大鵬やら白鵬やら見た事のある名前が出てくるものです。
当麻寺へ参詣される方は是非こちらへも立ち寄ってみてください。土俵の上に上がるだけでも非常に楽しいものですよ。


博物館めぐりに戻る