2019年08月 宇陀松山「薬の館」

宇陀市松山地区は戦国時代から江戸時代初期にかけて城下町として発展してきましたが、松山藩主織田氏の国替えにより天領となり、その後は商人の町として繁栄してきました。武家屋敷はほとんど残っておらず、豪商の屋敷が宇陀松山の景観を形成しています。

宇陀松山城跡の散策や、多武峰越えの終着地点としてバスで帰宅する事しか利用したことのなかった宇陀松山地区でしたが、今回はしっかりと町屋を堪能する心づもりでやって来たのでした。


上写真が豪商(薬問屋)細川氏の旧邸で、現在は「薬の館」として公開されています。展示している資料には細川氏から養子に出された藤沢氏(アステラス薬品(旧藤沢薬品工業)創業者)のものも多く含まれています。興味のある方は是非受付の女性に声をかけてみてください。色々教えてくれます。

藤沢氏の養子縁組先も薬問屋で、そこから暖簾分けした時は薬種商はできるものの製薬資格がなく、当初は「樟脳(防虫剤)」をメインに製造していたそうです。原材料がクスノキで、丁度、日本のクスノキ輸入特権(?)が認められた事と重なり大いに生産したらしい。


壁の左側に掛けられている像が「鐘馗」と言う中国の道教神で、「藤澤樟脳」の商標でもあったそうです。悪霊退散のお守りにもなりそうですね。鍾馗様の下にある箪笥が「薬箪笥」と言う、様々な薬を小分けした引き出しが納められます。私の世代が恐らく、薬箪笥を小さくした行李を背負う商人を見た事のある最後の世代ではないかと思っています。


今なお旧細川家邸の豪華絢爛さを物語る看板です。屋根の内側の組木も立派です。「天寿丸」の上の白い丸には、菊の紋が入っていましたが、明治維新前後、恐れ多いと削られました。一方外に出さなかった先ほどの写真の看板には菊の紋が残っています。貧乏公家が菊の紋を売って生活の足しにするという事があったらしい。


鴨居に、槍掛がついているのが見えるでしょうか?写真では見えないが左側の鴨居に刀掛も有り、掛けられていた刀は、ペリー来航に伴う台場建設に500両を幕府に寄付したことで苗字帯刀が許されたものだそうです。ちなみにこの部屋からは、通し土間を挟んで小さな中庭が見えるようになっており、日本国をかたどった庭石が配置されていました。野望を象徴したようなこの部屋で、細川氏は夢を描いていたのでしょう。


部屋を出たところに、「猪目(イノメ)」と呼ばれる火除けのまじないが象られていると、受付の女性が教えてくれました。廂の下の枕木(?)に取り付けられたハート型の文様が、それです。奥に台所があるので、そこから火が燃え移らないようにということかもしれません。




種類豊富な看板収集が、見どころの1つです。
まずは1枚目の写真。
淋病の新薬ツヨール特約店とあり、需要がある時代だった事もさることながら、特約店という形態がすでに使われていることに注目です。
また健脳丸という薬名も興味深い。巷説では「大正天皇は脳の病で亡くなられた、体調不良は脳に原因があるので服薬すべし」という事がまことしやかに語られていた話を、大正生まれの人に聞いた事があります。
次に2枚目の写真。
ブリキ看板だとずっと思っていたのですが、ホウロウらしい。七宝焼の工程を思い合わせてみると、手間のかかる豪華な看板である事が判る。
3枚目の写真。
ポリタミンは、リポビタンのことなんだろうか。「滋養強壮神血剤」と書いてあるのも面白い。また中将湯という薬の看板を比較して、中将姫とは?の説明と共に、姫の画像の時代変化を展示しています。初期では浮世絵に描かれるようなはんなり顔なのですが、時代がくだっていくと洋風美人として毛先にカールがかかった髪形に変わってきます。
奈良には「薬の町」と呼ばれる名所が2つ有り、1つが高取もう1つがここ宇陀なのです。宇陀が名所になる基盤は何だったんでしょうか?と受付の女性に尋ねると、水銀ではないかという事でした。
宇陀から伊勢にかけて水銀が取れた事は有名で、有毒な水銀ではあるが食物連鎖を経過することで薬用が期待されていたのではとの見解でした。面白い見方だと思います。科学では限界がきているような事を人は体験的に知っているのです。


ここからは細川邸を見ていきます。新選組の伊藤甲子太郎と山崎進が、村内トラブルの調停のために宿泊した部屋なんだそうです。板の間があるので一番部屋なのでしょう。材木の見事さに目を奪われました。柱が栂、柱の左下の板がケヤキの一枚板、右下が黒柿なんですって。黒柿は初めて見たのですが、燻したような黒い筋目が美しいです。
まだ手作りだった時代のガラスを通して眺める庭風景も、涙目で優しく歪んだように見えてオツなものです。ガラスではなく「硝子」と書くのがふさわしいですね。
鉄砲風呂と五右衛門風呂も現物が見れます。前者はヒーターで温めるイメージで主人および客人しか入れなかったのに対し、後者はまるっきりの竈機能で洗い場が広く複数人で入れる使用人用でした。


こちらは台所の近くにある2階の部屋で、奉公人の部屋となっていたそうです。梯子がない限りは、上り下りができませんね。二階の写真右手に窓があるのですが、そこは格子状に作られており、光は入るが人が逃げられないような作りになっています。当時の年季奉公と言われた若い人達の気持ちが垣間見える部屋です。

豪農の民家で見た時は、台所の屋根は竈から出る煙が循環できる構造となっており、藁を大量に置く仕切りがあり通過する煙で燻せるよう工夫がされていました。その藁で屋根をふき替えたりするのに大切に使うものだったそうです。こちらはそういう作りではなかったので、豪農と豪商の違いが顕著に出ていると思いました。
最後に、気になった箇所をいくつか自分用というか備忘録として記録しておきます。
神楽岡がかつては大将軍と呼ばれていたという事。大将軍は神社だったのか?神楽岡に変わったのはいつか?またその契機は?
大きくなかったので襖ではない。何かの引き戸のだと思われる大きさで、裏紙にめちゃめちゃ帳簿か何かと思われる記録紙が再利用されていました。まだ調査はされたことがないとのこと。
橿原市軽町の春日神社の鳥居にあった刻印「薬種商」が心に引っかかっていて、これはヒントになるかもと思った。さて、何から調べようか、はたまたは意外なところから答えが見つかるかもしれません…これが人との出会いの面白いところです。


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