2019年9月 西予市卯之町

開明学校

江戸期以来の商人町と言われる卯之町が宇和島から北へ七里のところにある。
愛媛北部の大洲・松山と南部の宇和島をつなぐ宇和島街道の宿駅として栄え、合併後に西予市となった今も市役所やバスセンターがあり、人や物が集まる場所なのだ。
卯之町の旧街道沿いは町並み保存地区として観光用にアピールされていて、伝統的な町並みが拝見できるエリアとなっている。
その伝統的な建物の1つが今回訪問した開明学校である。


その日の午後はあいにくと雨が降っていました。あの頃、須田画伯が「ここは大変なところです。京都だって奈良だってこんな一角がありますか」と感動した、卯之町の町並みをずっと思い描いていたのですが、濡れないように急ぎ足で通ったため見学はほとんどできませんでした。

雨に煙る山を背景に聾学校が建っており、その前の小路を直進していきます。すると前方に大きな洋風建物が見えてきます。これが明治15年に建てられた日本建築に洋風要素を取り入れた開明学校です。

入館する為に向かいにある宇和民具館でチケットを購入します。セットで民具館も見学できますが、時間に追われるかもしれない(私たちは時間に追われた)ので開明学校を先に見るべきでしょう。


開明学校の特徴としてはフランス風アーチ型の窓と唐破風の玄関と紹介されています。6教室あった校内は、今は展示ケースが並べられており明治から昭和にかけての教育資料が600点展示されているとのこと。
明治16年に男62名、女53名だったのが、明治44年には430名まで増えたという。6教室なので1教室70人入っていたということでしょうか?

窓と玄関の山なりのラインが美しく、白壁も風景とよくなじんでいるような木造二階建てのこじんまりとした建物で、離れの建物と申義堂というお堂がありました。

教室の1つは展示ケースは無く、当時の面影が残るままに机が並べられておりました。
この教室が「街道を行く」で紹介されていて、須田画伯が長椅子に腰かけ「わっちの頃と同じです」と言い、この席から小首をかしげ教壇を見ていたそうです。須田画伯は明治39年生まれなので、もう100年近くこの机と椅子は備え付けられているということです。(須田画伯が訪問した当時と同じかは聞いていない)

この教室では明治の授業体験を開催しており、はかま姿の先生が20分ほどの授業で楽しませてくれるそうです。4人からの予約で1人200円と書かれています。どのような授業をするのか少し気になりますが、展示してある教科書を見ているとかなり難しい問題がでそうです。


展示ケースの中から私が少し気になったものを紹介してみましょう。

下写真は福沢諭吉の文明論の概略。
「文明論とは衆人の精神発達を論ずるものであるが、考えてみるに人の世を処するには、局所の利害得失に覆われて見誤ってしまうことが非常に多い」のように書かれているのですが、このような難しい議論を小学生が習っていたということにびっくりします。文明論の概略を読ませたうえでどのように授業をしていたのだろうか?


上写真が有名な黒塗り教科書。
敗戦後、占領軍が天皇や戦争に関する部分を消せといったので黒塗りで対応したもの。これだけ見ると占領軍がひどいようにも見えますが、おそらく内容もひどいものなのでしょう。消された中身がとても気になります。

教科書がこれほど時代で変わっていくというのも面白いものです。国家の目的が一番明確にあらわれるのが教科書なのかもしれません。
現代の教科書でも国家が求めているものが見えてきそうですし、その目的を見比べて文明を論じる、そのような授業体験などを開催すればもっと活気が出てきて人も集まるのではないかと思います。

他にも当時使用されていたチャイムなどの道具や様々な教科書、地元の長老への聞き取り調査書などが展示されていて、じっくりと思考しながら見ているとかなりの時間を要します。
また、渡り廊下でつながった離れの別館には付近で発掘された考古資料も展示されておりましたが、今回は時間が無かったため見学できませんでした。

続いては民具館を見てみましょう。
町内から集めた古い民具を展示している館で、卯之町の歴史の紹介と古い写真に絵地図、牛鬼の面や五ツ鹿の面、劇場で使われていた衣装。古いカメラの展示では、上下逆に映るというのが実際に見れるセットなども用意されていました。

そんな中で気になったのが下写真の「亥の子」という石です。

11月に小学生の男の子が町の家々を回り、みんなで石をついてご祝儀をもらう祭りだそうです。
詳しい説明がないのでよく分かりませんが、ネットで調べてみると、多産の猪にあやかるとか田の神を天に帰す、などと言われているらしい。
小学生の男の子が大勢でやる、ということに意味がありそうですがどうなのでしょう?

この祭りも「文明論の概略」にいう「習慣が人為的なものであるか自然的なものであるか区別がつかない」という一文に符号するものであり、人の世が精神発達を目指す上で見誤ってしまう1つの原因なのでしょう。

その「亥の子」も現在ではあまり使われていないのか、ゴミ置き場に保管されている状況になっています。


一階では特別展も開催されていました。この時は「パンと昭和」が展示されていて、東京の昭和の暮らし博物館の巡回展に宇和町での資料を加えたものでした。
この展示が意外と面白く時間を大幅に割いてしまうことになったのです。

戦前にはパンが受け入れられていなかった日本でなぜ流行っていったかということに関して書かれていて、戦中から戦後の食糧不足によりアメリカからの支援物資ということで小麦がはいってくることになりました。これはアメリカの余剰農産物処理の思惑とも重なり日本国内で小麦粉を消費することが大々的に推奨されるようになったそうです。

さらには「ララ物資」という支援があり、これはアメリカ人の善意による寄付だとされていたそうですが、実際は在米日本人が呼びかけて広まった救援活動だったとのことです。

「ララ物資」の部分を見ると誤解しそうですが、アメリカ人の善意であることには変わりないと思います。

他にもバターやジャム、酵母の説明や調理パンに名古屋のモーニングサービスの説明。
宇和地方の資料を使用した、宇和町での学校給食の話しなどが書かれていてとても面白かったです。

ここで思ったのは関西で人気のお好み焼きやたこ焼きも、ひょっとするとアメリカの小麦戦略の賜物だったのかもしれません。
「街道を行く」は40年くらい前の事なのですが、その時でも展示ケースに教科書類が展示されており小学校の博物館となっていたそうです。それが現在でも続いているということは、卯之町の人々が教育の大切さを重要視していたからなのでしょう。
しかし、全国一律教育となってしまった現在では地方特有の個性を教育にもたらすことはできず、亥の子も廃れ、文明論の概略も散っていってしまったのであります。そのような観点から見ると義務教育以外の教育というものがこれから必要になってくるのかもしれませんし、その余裕はあると思います。

こちらの館員の若い女性に「宇和島近辺の人は言葉遣いが優しくてびっくりしますわ」と聞いたところ、「南予はおっとりとしているとよく言われる」と言っていました。南予という認識があるのに西予市という名前をつけるのも、決定権のあるえらい方たちが、地方の個性を無視し文明論の概略を読まなくなった影響なのでしょう。そんな人に限って一生懸命「亥の子」に参加していたかもしれず、人の世の利害得失は本当に難しいと感じさせられます。

おっとりした性格が関係しているのか、濡れたカッパを干してくれたり傘を用意してくれたりと気遣いがすごかったです。あまりやりすぎる必要はないと思いますが、これが南予地方の文明なのであります。


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