2020年2月 石の民俗資料館

高松港のやや東方、屋島の隣の庵治半島に「庵治石」という石材の産地がある。黒い色の花崗岩で、特徴としては、岩の組成物の粒子が緻密に結合し、水の浸透率が低く、黒雲母に含まれる鉄分が少ないため耐久性に優れているという。その庵治石を紹介した「石の民俗資料館」が五剣山という尖った形が印象的な山の麓にある。
「香川県のイメージとは?」と問われるとほとんどの方が「石」と答えるのではないだろうか。それほど香川県には石材が豊富で、石清尾古墳や高松城だけでなく、大阪城石材や豊島石、石器時代のサヌカイトまで、幅広い時代にわたり採掘、使用されてきたのだ。その石材王国の一端がこの資料館で見えてくることだろう。

「石の民俗資料館」へは琴電八栗駅が最寄り駅となります。駅から北東へ歩いていると、向こう側からまるで覗いているように見えるのが五剣山。別名を八栗山と呼ぶようです。5つの峰があるのは見れば分かりますが、八栗山はその峰から八国の境が見渡せるという由来があるそうです。

五剣山へ向かう道には石材屋が多くあり、プレート石を売っていたり、石造物を飾っていたりして石材の町らしい雰囲気がでています。おそらく、八栗寺へお詣りする客が多く、その人たちの目につくようにこの道沿いに商店をだしているのだと思います。
それを証明するかのように、訪問したその日は車が八栗寺方面へずっと渋滞していて、この無神論者はびこる現代においてこれほど人気を博すお寺があるとは!と思いびっくりしたのですが、残念ながらうどん屋の行列でした。うどん屋に車の行列というのもかなり驚きですが、知らぬ間に時代が変わっているのでしょう。

駅から30分ほどゆったり歩き、うどん屋の行列を横目に資料館へと到着。うどん屋の警備員を資料館の警備員と思い道を尋ね、「?」顔されてしまいましたが、うどん屋に警備員がいるほうがよっぽど「?」だと思いました。
「石の民俗資料館」はやや高台に立地しており、館外の公園からは高松市が見渡せます。隣を見てみると屋根のような山容の屋島があり、資料館の奥には五剣山。五剣山の脇に見えるのが上写真の、今も庵治石の採石場として使用されている女体山です。実際に現地を見たわけではなく地図を見ただけですが、女体山周辺はかなりボコボコになっているようです。


資料館は写真にあるように半円状に丸く造られた建物で石の博物館らしさはあまりありません。階段を構成している石垣も庵治石ではなく安い石を使っているらしい。
館内に入ると半円状の廊下のようなホールがあり、ホールから常設展、特別展、石の資料室という3つの部屋へとつながっています。ホールの一角では庵治石の土産品販売や体験コーナーなどもありました。

常設展では歴史の中での石の役割や使用方法の説明を軽くした後に、庵治石の石材加工の紹介へと入っていきます。大きなジオラマを使い、石を切り出す丁場の風景と、石材を運び出す作業や細かい加工の現場を再現していました。

庵治石の歴史は意外と古く、南北朝時代の男山八幡宮の再建の時に使用されたという記録があり、この付近一帯が平安末期から男山八幡宮の荘園とされていることから、その時代にも使用されてきたのではなかろうかという期待もあるようです。
しかし、硬く丈夫な事が特徴の庵治石なので、切り出しや加工が難しく、古い時代から頻繁に使用されていたと考えるのは無理があるかもしれません。それでも、要所要所には使用されているかもしれないので、男山に行く機会にはじっくりと拝見してみたいと思います。

常設展の後半部分には手作業時代の石工用具が飾ってありました。ハンマー1つをとってみても細かく形が違っていて、ゲンノウやセットウとそれぞれ名前も違います。
下写真は全て石に打ち込む鉄材で、「ヤ」と呼ばれる三角形の形状のものと、「セリガネ」と呼ばれる板状のものがあります。岩を割るときには、まずノミで「ヤ」を打ち込む穴を作り、そこへ「セリガネ」二枚を側面にあてた「ヤ」を打ち込むのです。それをジオラマの写真のように割りたい方向へいくつも打ち込んでいき、ようやく割れるのです。
三角形の「ヤ」は先端が尖っていますが、先端が直接石に触れてはいけないそうです。その為に「セリガネ」があり、「ヤ」の先端ではなく、胴部で徐々に石を押し広げていくイメージで割ります。


上の写真は石工用具ではなく、石工用具を加工する鍛冶用具です。右下の筒状のものにノミ類を差し込み、また左下のヒバシでヤ類を挟み、高温で熱したそれらを左側にある作業台で叩きならします。真ん中下の板のようなものは、「ビシャン」という石材の面を滑らかにするハンマーの、打ち付ける面の目立てをする時に固定する道具です。

これらの石工用具類が国の文化財として指定されていて、石の民俗資料館の一番の売りになります。おそらく、民具館形式で保管してあったものが文化財になったので、資料館という形になったものだろうと思います。他のところでも探せばありそうですが、ここまで揃っているのが珍しいのかもしれません。

庵治石の採掘が活発になるのは、火薬の使用ができるようになった明治30年頃からですが、それまでは「玉石」と呼ばれる、地中より浮き出た岩をとっていました。下写真は家の近所の貝吹山の玉石ですが、このくらいの大きさの岩でも前に立つとかなりの迫力があります。


玉石の部分をとると、なにか周りと違うおかしな空間がすっぽりとそこに生まれています。このような時代が火薬による発破での採掘により変わっていき、さらに先ほど見た手作業の石工用具類も現在では無くなっているのです。

常設展はこれで終わり、隣の特別展を見ていきます。この時は「屋島・黒石の丁場と石工用具」が開催されておりました。
「黒石」とは屋島北嶺で採掘されていた火山礫凝灰岩で、江戸時代に広く流通した「豊島石」と同種の石材であります。豊島、屋島の他にも小豆島や女木島、男木島からも産出され、庵治石の特徴とは違い、柔らかくて加工しやすく耐火性に優れています。
展示されていた2つの石を見比べてみると、黒石はポロポロと崩れやすそうで、豊島石の方が滑らかなことが目に見えて分かります。


※クリック拡大
「豊島石」は江戸時代寛政11年(1799)に刊行された「日本山海名産図絵」にも紹介されています。挿絵には洞窟の中で火を灯し明かりにして、ハンマーでヤを打ち込む姿や、洞窟の外で石材をカマドのように加工する姿が描かれています。場所は少々違えども、屋島でも同じように採掘されていたと思われます。

屋島北嶺には花崗岩を露頭採掘した場所がありますが、黒石は洞窟内で採掘されていました。何故内部を掘り進むのかというと、外側は金石と呼ばれる硬い安山岩(讃岐でよく見る岩でサヌカイトのようにも見える)で覆われている為、それを取り除くのに非常に労力がかかるのです。


屋島洞窟内部は石垣で通路を維持しています。このように石垣で補強しておかなければすぐ崩れてしまうのでしょう。暗く狭い場所で明かりを焚き、奥へ奥へと掘っていく。ここである程度加工までしてしまうのだから、生活の大部分は洞窟の中ということになりましょう。
このモグラのような生活をしていた採掘集団とはいったいどういう集団だったのでしょうか?現地民がたまたま良い石材を見つけたのか、流れ者の石材師が狙って掘ったのか、農民の副業なのか、藩として経営していたのか、など色々と気になる問題が山積みになってきます。

他にも石材加工道具や屋島の丁場が閉山する1941年まで黒石を採石していた事業者の売上帳、政府の許可証や古老への聞き取り調査などありましたが、時間が無くてあまり見る事ができませんでした。17時閉館はもう時代遅れだと思うので改善してほしいと思います。

「石の民俗資料館」は石の紹介というよりも、採掘方法や採掘・加工する道具の紹介が主でありました。石そのものや石工集団に興味があって訪れたので少し的外れではあったのですが、今回の展示を見てみて道具も気になりだしました。
というのも、「鎌倉時代に花崗岩を丸く成形する技術を宋人が持ってきたので、五輪塔が流行し、西大寺律宗集団も大きくなった」という考えがあり、固く脆い花崗岩を丸く滑らかにするには、今回見た「ビシャン」という道具がまさにうってつけではないかと合点がいったのです。

道具の紹介が主な割りに、使用方法の説明が雑であったように思います。「ヤ」と「セリガネ」、「ビシャン」についても「どのような原理で割れるか、滑らかになるか」という詳しい調査と説明が欲しかったと思います。
また、旧時代の加工だけでなく、それが現代にどう変わっていくかを展示するべきで、そうしなければ石材加工のイメージがまったく湧いてきません。展示の工夫をしていただけるともっと楽しめると思うので頑張ってほしいと思います。



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