2021年6月 天理参考館

「器にみるアンデス世界」

昨今の社会は邪気に満ちている。いつからだろうか?ウイルスが蔓延し始めたころからだろうか?
明るく平和な時。文明という利器の中で人々は笑顔に満ち溢れていた。ゆえに、肉体は衰え、精神は荒廃し、少しのウイルスで世の中は恐慌を呈している。あれほど賢明であった人々は「ワクチンを打てば終わる」という儚い希望に一斉にして飛びつき、ウイルスはそれをあざ笑うかのように変異する。

思いかえせば、人々の笑顔は薄い仮面であった!それは文明社会が作り上げた副産物だったのだ!昨今の排他的な邪気は、新しい副産物が増産されているだけで、昔とさほども変わっていないだ!

このように文明について考えることが多くなってきた今日この頃。アンデス文明展が天理で行われると聞き、渡りに船の機会であった。ウイルスの恐怖、マスク呼吸困難、マスクマン過剰注意などのいくつもの危険が予想されるものの、是が非でも見学しておかねばならないのだ。

今回はアンデスの北部地域の土器の展示となっております。写真撮影も可能だったので、天理参考館が所蔵する品は北部地域のものが多いのかもしれません。
名古屋博物館のアンデス展では、アンデス全体の遺物を見る事で文明がどのように移り変わったかを紹介されておりましたが、今回は土器限定の展示で、土器の用途や作法も紹介されていて前回の足りなかった部分を補うことができました。

※クリック拡大(カシ男脳内図)

天理参考館の三階の一室が展示会場となっていて、数々の土器が展示されていた。それとは別に、展示室の外ではバーチャル見学なるものも開催していた。利用していないので詳しくは分からないのだが、土器をより近くで見れるということなのかもしれない。次回は利用してみたいと思います。

モチェ文化からチムー・インカ時代までの土器があり、前回もよく見た鐙型という土器にコミカルに表現された人や動物、植物などアンデスらしさがでていました。目新しいものとしては笛吹ボトルという土器。そして、モチェ周辺にいくつもあったと推測されている文化でしょうか。

名古屋のアンデス展ではチャビン文化がモチェ文化以前にあったのですが、今回はチャビン文化の土器という表示はありませんでした。
そのモチェ文化以前の土器(紀元前1800年頃〜0年頃)は「クピスニケ」という土器様式の名前で展示されていました。「クピスニケ」とは鐙型注口壺を主とする土器の名称で、北部海岸地域で作られたもの。作成年代は紀元前1500年頃〜紀元前500年頃までと考えられているようです。
そして、鐙型注口壺とはトウモロコシの醸造酒「チチャ」を入れる容器だったと推定されていて、古代アンデス人にとっての特別な器だったとされています。

上の写真がクピスニケ。「前1200年頃〜前800年頃の作成で、全体を丁寧に研磨整形している。」
すごくシンプルで模様も何も無い鐙型土器が製作されていたことに驚きました。研磨して鐙型にすることがそもそも特別な行為なのかもしれません。
クピスニケは他にもいくつかありましたが、造形は簡易的に見えました。

さて、ここからが新文化の登場であります。北部地域にはモチェ文化しかなかったと思っていたのですが、実は細かな範囲で別の文化が存在していたのです。

・「レクワイ文化」
紀元前200年頃から紀元後600年頃にかけてカエホン・デ・ワイラス地方を中心に栄えたと考えられる文化。学術調査の資料が少ないため実態はあまり解明されていない。
土器には緻密な白色粘土を使用し、文様を描く際には、蝋や練ったばかりの粘土紐で描いてから顔料につけるという「ネガティブ技法」を使っている。
ネガティブ技法に関して不思議に思ったのでネットで検索してみると、蝋か粘土紐で描いた部分は胎土本来の色が白っぽく浮き上がり、描かなかった部分は炭化して黒くなるのだという説明があったが、実際にどのような技法であったかはよく分かっていないようだ。


上写真「把手付き塑像注口壺」がレクワイで最も一般的な器の形なのだそう。
普通の壺のように見えますが、人の顔の部分を水が通り、頭の部分から注ぐことができるようになっています。鐙型土器とは違って、注ぐことも重視されている壺ということでしょうか。

下写真「笛吹ボトル双胴」はネガティブ技法で獣のようなものが描かれています。周りは黒く炭化していますが、蝋や粘土紐で描いたと思われる部分は綺麗な白い胎土の素地が見えています。
前後二つの壺があり、細い管でつながっています。これは「笛吹ボトル」という土器で、この写真の場合はネズミの中が空洞になっているのですが、さらにネズミの空洞の一部分に笛玉という空洞の部分が作られております。ここを空気が通ることによって音が鳴るという仕組みになっています。具体的な用途は分からないそうですが、説明図を見ていると、液体を中に入れて液体を揺らすことで音がでる仕組みのようでありました。

・「ビクス文化」
紀元後〜紀元後500年ころまでチュルカナス市のビクス山を中心として栄えた文化と考えられている。盗掘者の間で熱病が流行ったことで発見され、墓には金製品が副葬されていたことで有名なため、盗掘によって遺跡破壊が深刻な地域。

「笛吹ボトル双胴」左の部分には注口があり、右の部分の人の顔をかたどった部分に笛玉があり、目、口、耳、鼻の穴から空気が出入りできるようになっている。
これはまるで笛のような作りをしています。目を押さえて吹くとか、鼻を押さえて吹くなどすれば色々な音が楽しめそうです。

・「ガジソナ文化」
紀元前50年〜紀元後300年にかけてピウラ地方からビルー川流域に広がったと考えられている。型入れ技法で土器が作られたり、ネガティブ技法で文様が描かれたりしたものがある。村落構造が成立し階層化が進んだ社会であったと考えられている。

「笛吹ボトル双胴」建物のように見えるものは神殿を象っていると考えられ、神殿の中には笛玉が見える。
これも先ほどの笛吹ボトルと似たような作りです。簡素な造りなので、音が鳴るということが大切なのだと思われます。こうしていくつか見てみるとレクワイ文化が凝った土器を作っていたことが分かりますね。

「笛吹ボトル双胴」こちらはチムー時代のものです。胴部中央には月と太陽(又は満月)を表現し点文を施しています。人物の顔も細かく表現され、技術があがっていることがよく分かります。
このように後世まで作り続けていたにも関わらず、何に使用されたかは分からない、というのも文字が無いからであり、文化の違う外国に征服されたからだと思います。また、今になって興味を持たれているというのも不思議な話ですね。

・「モチェ文化」
紀元前後〜紀元後700年頃までペルー北海岸で栄え、南北600kmもの範囲を影響下においたとされる文化。シパン遺跡では金銀銅製品が副葬されていたことで有名。鐙型注口壺の注口部の形態変化をもとに5つの時期に分けられている。
精巧な金属製品や土器が有名。モチェの土器は大きく2つに分けられ、人物や動植物などを模した象形土器と、クリーム地に赤、または茶褐色の顔料で様々なものを描いた図像土器がある。


モチェと言えばやはり鐙型土器であります。角の無い丸い壺につけられた把手のような注口。コミカルなキャラクター風に表現された図像。これを見ると「アンデスの土器だな」という認識を持ちます。

上写真はトカゲを描いた土器で、右がモチェT期で左はモチェV期。右の土器はネガティブ技法に見えるのだが、そのような説明は書いていませんでしたし、拡大してよく見てみると、色が重なっている部分や筆を止めた部分が分かるのでネガティブ技法ではありません。
右と左で注口が若干変わっているのが見てとれます。これによっておおよその年代が分かるようですね。

下写真の壺もアンデス土器らしい土器。精悍そうな戦士もかわいらしく見えるし、豚のように描かれた動物(キツネらしい)も少し間抜けに見えます。これもモチェV期。

・「シカン文化」
紀元後800年〜紀元後1375年頃までペルー北海岸で栄えた文化。1375年頃にチムー王国に征服される。
前期、中期、後期と3つの時期に分けられ、最盛期の中期シカンでは、巨大なピラミッド型神殿が多数築かれ、光沢のある黒色土器が大規模に生産される。金銀、合金や砒素青銅の大量生産に成功して、これらの金属製品をもってエクアドルやコロンビアと交易した。

中期シカン時代に作られた注口壺。把手部分には人物の顔が象られ、胴部にはキツネと推定される動物が両手に笏杖を持って向かい合っている。キツネはシカン神の従者と考えられている。
シカンの製品のおおくにはシカン神が象られている。仮面をかぶったかのような無表情な顔に「アーモンドアイ」と言われる吊り上がった目が特徴的。
シカンは黒色土器が多く作られているので、黒すぎて顔の判別がつくにくい。黒にこだわっているからなのか、このキツネのように彫りだす方法で描いています。他の文化でみられる顔料を塗るということをしなかったのでしょうか?

・「チムー文化」
ワリ文化崩壊する頃〜インカ帝国に征服される1470年頃まで栄えた文化。南北1300kmの範囲を影響下に収めた。
首都チャン・チャンでは工芸職人が1万人ほどいたと推定され、優れた金属製品が作られ、黒色磨研土器も型入れ技法によって大量生産されたと考えられている。周辺には衛星集落が存在して、チャン・チャンに海産物や栽培植物が集められ、それらをこの都市で再分配したことが分かっている。
インカ帝国に征服された後も、型入れ技法の黒色土器が作り続けられ、インカの土器に特徴的な泥漿で彩色し酸化焼成した土器はわずかしかつくられなかった。



チムー時代の壺はシカン同様の黒色土器ながら、模様や図像などは強調せずにシンプルな造りとなっていました。一番上の壺は鐙部分にペリカンを彫り、注口の根本に小さな猿をつけています。
二番目の写真は黒と灰色のストライプ模様のみで、儀式に使ったとは思えないような代物となっています。神に対する考え方が変わって来たのでしょうか?
一番下の写真は褌姿の男が座っていて、にこやかな表情をしております。これは現代に通じるようなゆとりのようなものを感じます。チムー文化とはかなりの文明社会であったことがうかがえますね。

展示最後のテーマは贋作づくりについてでありました。
スペインに征服されて以降、盗掘はずっと続き、最初は金銀製品が目当てであったが、1860年代前半にアンデス古代文化が評価されるようになってくると、土器などの考古資料の収集熱が高まっていった。これが盗掘に拍車をかけ、贋作づくりの契機となっていった。
贋作づくりの当初は破損した資料を補修したものが主であったが、徐々に新しい造形の土器がつくられ、技術の向上により真贋の見極めが難しい贋作が作られていく。この贋作自体が新しい古代文化の再生産のあり方を示してくれる。

補修品、贋作もクピスニケ〜チムーまで様々の土器が展示されておりましたが、私が見ただけでは贋作どころか、補修跡もまったく分かりませんでした。説明に書かれていても分からないので、よほど巧妙に補修されているのだと思います。

今回は新しい文化の土器が展示されていて非常に新鮮でありました。双胴ボトルという音が鳴る土器、ネガティブ技法という文様の描き方。そして、モチェ期とシカン期の違いがよく分かりました。
モチェの場合は万物が神のように感じましたが、シカンでは神は1つ。さらに進んだチムーでは神がいなくなったように思います。それは文明が下へ下へと浸透していった証であろうと思います。
古代のアンデス土器の文様の多様さを考えると、文字の無かったアンデスでは土器が意思の伝達方法として使用されたと言われていることもよく分かります。シカン、チムーと時代が進むにつれ模様はシンプルになっていき、表現もより柔らかになっているように見えます。

日本でも文字が読めなかった農村においては、絵暦が使用されておりましたし、高僧の伝説などを絵で解説したりもしています。これらは現代人の我々が見てもなかなか理解することはできないのです。
そういう視点でものごとを考えてみると、日本で出土する土器や土偶、埴輪なども「神に祈る・先祖に祈る」というよりは、大衆に何かを伝える為に使用していたのかもしれません。アンデス土器のように音がなるような仕組みを持っていたりすると、なお面白いでしょうね。

アンデス文明展を見学することによって、「文明」というものを考えさせられた。土器の文様を使用し、「この時はこうしなさい、あの時はこうしなさい」と説明されている時代があった。現代では科学データなる数字と、日常的にさらされているニュースという情報。これを使用し「ワクチンを二回打ちなさい、マスクをしなさい」と説明されているわけだ。いったい何が違うというのだろうか?
時代や文明は常に前に進んでいるかのように見えて実はそうではなく、ただ私たちの習慣や目に映る光景が変化しただけにすぎない。
文明とは、1つのものを多人数が信奉するということだと、今回の展示会で思ったことであった。



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