2017年5月 水俣病資料館

「はじめに」


今回はわたくし、マネージャーの橿男が博物館めぐりを担当させていただきます。

さて、「なにゆえ今水俣なのか?」なのですが、私は歴史作家の海音寺ファンでして、海音寺の出身地である薩摩の大口に一度は行ってみたいなと思っておりました。その大口の隣町に水俣市があり、小学生の時に名称だけを教わった「水俣病」というものが気になりましたので立ち寄ることに致しました。
教科書で習って、4大公害病などと名前だけ覚えて得意げになっていた記憶がありますが、その中身はまったく何も知らなくて、軽い気持ちだったのですが、少しでも知りたいと思い水俣病資料館に行って参りました。

まず水俣病問題の流れをおおまかに見てみましょう。
  1. 水俣に日本窒素肥料(チッソ)が設立される
  2. チッソの排水に水銀が混ざり魚や貝に濃縮されていく
  3. その魚を食べた人が神経系の病気になり、村の中で差別がはじまる
  4. 患者が立ち上がるもののチッソや国が暗躍し問題がこじれる
  5. 裁判闘争になっていったが形だけの和解になり、また患者間でも亀裂がでてくる
  6. 水俣病の申請地域が増えていき、どうしようもないので救済法で和解
私が学んだ感じだとだいたいこんな流れです。ここからもう少し掘りさげて思った事などを書いていきたいと思います。

1 水俣に日本窒素肥料(チッソ)が設立される

1905年(明治38)
塩の専売制度がスタートし水俣の塩田が消滅した。水俣は塩田に代わる産業を求めていた。
1906年(明治39)
野口遵、曽木電気を設立し大口金山に電力供給。余剰電力を使ったカーバイト製造を考え、付近の土地を探していた。
1908年(明治41)
曽木電気と日本カーバイト商会が合併し日本窒素肥料(チッソ)として水俣で操業。水俣は新しい産業を求めてチッソの誘致に力を入れていた。

日露戦争の戦費捻出のために国が塩の専売を始めたというのは赤穂でも見まして、その為に赤穂の塩を船で運んでいた坂越の廻船業者は違う商売をやりだしました。
水俣も同じように新しい事をやりはじめなければいけない状態だったわけです。
ちょうどその頃に、大口金山の排水動力確保のために曽木の滝を利用した発電所ができ、余剰電力を使いたい野口遵と新興産業が欲しい水俣の思惑が合致して、「チッソ」が誕生しました。
当初は水俣の住民達に歓迎されていたわけではなく、「会社は生活に困った人のいくところ」として差別されていました。それがチッソの資本がどんどん増えていき力をつけてくると、チッソに雇用される事が評価されるようになってきました。そしてチッソの資本に水俣の町がまるごと飲み込まれていったのであります。

今でもよくありそうな事で、城下町になっているところは現在もありますね、コマツやトヨタや原発とか、それがなければ町が存在しないという思いに支配されているところです。
しかし、生活に困った人(差別されていた人)が働ける場所ができるということは、雇用する側もされる側もどちらにとってもいい面しかありませんよね。でも、その人たちが裕福になっていき、チッソの資本と共に身分もあがり立場が逆転していったということが、悲劇につながっていったわけなので、物事は善悪では片づけられないことがよく分かります。

※追記:水俣の地形から妄想してみる

水俣は山に囲まれていて孤立しているかのように見えますが、島々にも囲まれており波も穏やかで、入り江が多く船をつなぐのにも使うのにも便利そう。船が交通の主だった頃は、島々との往来も頻繁であったと思われ、明るい漁民達の姿を想像してしまいます。
陸地は山が大半を占めているので、平地が少なく米はあまりとれないと思われます。その分魚や貝がたくさんとれたので、魚が主食で、芋や小麦をおかずにし、米は病気の時に食べる程度だったそうです。
現在チッソがある辺りが塩浜だったところで、埋め立てたような感じがしたので赤穂などと同じような入浜式塩田だったと思う。この塩は主に島原そうめんに使われてたそうで、大口金山への石炭搬送と一緒で大切な現金収入だったと思われる。私は島原そうめんも大口金山も少々馴染みがあるので親近感が湧きます。
それが野口の発電所で石炭は終わり、塩の専売制度で塩浜も終わったので、チッソはまさに渡りに船といった感じですね。余った労働者はチッソで働けるし、各地からチッソ関連の人が来て、漁民たちにとっても売る相手がたくさんいて良かったと思います。
この時代は食うためにどうするかということが一番なので、環境がどうかとか考える余裕もないし、環境がどうなるかなんて分かりません。現代でも川などに人の手が入りすぎて、海に栄養が流れなくなり魚がすごい痩せてしまっているという問題もあるので、未来がどうなるかというのを考えるのはとても難しい事だと思います。だって今生きている現代の事ですら分からないのですから・・・

※追記:水俣の地図を書いてみた(クリックで大きくなります)




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