2017年5月 水俣病資料館

「チッソの排水」


2 チッソの排水に水銀が混ざり魚や貝に濃縮されていく

1932年(昭和7)
水俣工場でアセトアルデヒド生産開始

アセチレンからアセトアルデヒドを生成するときに水銀触媒を使い、そこでメチル水銀が副生され、百闕`から水俣湾へと排出されていった。
1941年(昭和16)
水俣工場で塩化ビニールの製造を開始

この工程からもメチル水銀流出。
1943年(昭和18)
水俣工場、被害漁場を買い上げ

水俣漁業組合、チッソと補償契約を締結。組合は将来永久に損害補償を要求しないなどの内容が盛り込まれる。(実質的には買い上げ)
1951年(昭和26)
アセトアルデヒド工程の助触媒を変更したとされる

補助的な触媒を粗悪な鉄系の材料に変更したとされていて、それにより副生されるメチル水銀の量が増えていった。
1954年(昭和29)
水俣市の漁村地区で猫が全滅の報道

この頃から魚が浮く、猫が狂い死ぬ、カラスが落ちるなどの異常が発生。猫が全滅したことにより水俣市がネズミ駆除に追われる。
1958年(昭和33)
排水先を百闕`から八幡プールを経て水俣川河口に変更

汚染の被害が不知火海全域に広がっていき、チッソの排水がより疑われる。
1959年(昭和34)
浄化装置のサイクレーターを八幡プールに設置

チッソ社長自らこの装置を通した水を飲むパフォーマンス。しかし、水銀を浄化する能力は無かった。
1962年(昭和37)
チッソが千葉県五井に石油化学工場建設

石油化計画に乗り遅れていたチッソは、五井工場の設備投資の為アセトアルデヒドの増産が必要であった。
1968年(昭和43)
水俣工場のアセトアルデヒドの製造設備を廃棄

ここで水銀の流出は終わりをつげ、政府は水俣病を公害認定した。

戦前からチッソの環境破壊は多発しており、水俣漁業組合が補償を要求し、チッソは「永久に苦情を申し出ない」事を条件に見舞金を払っている。しかし、この後も同様の補償要求は続き、被害漁場を買い上げた時の契約書の文言が「水俣工場が国家の存立上最も緊要なる地位にある事並びに水俣町の繁栄の為に重要性あることを認識し、その経営に支障を及ぼさざる様協力すべきものとす」と、漁民側は完全に見下された立場であった。
この当時のチッソは軍部との結びつきも強く逆らうことはできなかったし、戦後も国と歩調を共にしていたので、漁民側には拒否権は無かったのかもしれません。今でも戦争が起きれば同じような状態になると思いますし、すでにそういう組織は多々あるのかもしれません。

船の底には貝や虫などがつき、一年に一度は船底を焼かないとだめなのですが、百闕`の汚染はひどく、虫がまったくつかないので、船乗りたちは百闕`を絶好の場所として停泊していたようです。そして水俣漁協が騒ぎだしチッソに賠償金の要求をするので、チッソは八幡プールを通して水俣川河口に排出先を変更した。これにより不知火海全域に汚染が広がってしまい、通産省も浄化装置を設置することをチッソに指示した。
こうして八幡プールに設置されたサイクレーターではあるが、水銀を浄化する能力は無く、製作者が「チッソから水銀浄化能力はいらないと言われた」と裁判で証言している。さらに匿名の人から「八幡プールには干潮の時しか見えない排水パイプがある」という通報があり、市議がその排水パイプを確認したが、情勢にたいした変化も無く水銀は流され続けていたのである。
アメリカ空軍が撮影した写真で、この頃より少し前の写真が水俣市の参考資料にのっておりましたが、百闕`から水俣湾にかけての間が、白く濁って陸地に見える写真がとても衝撃的でした。百闕`の浚渫工事も何度か行われていたようですが、その財源を市がほとんど負担していたというのも驚きです。さらにサイクレーターなるものでの騙し行為。そういえば福島原発事件なんかでも同じような事が行われていたので、時代は変わり場所が変わっても人のする事は同じ、という偉い人の名言はまさにその通りでした。

チッソの流した総水銀量は4000トン(水俣市の参考本では堆積した水銀の量は70〜150トンともそれ以上とも)、そのうちメチル水銀は、アセトアルデヒドの生産量から逆算して理論上27トン、実際は5トン前後(水俣市の参考本にはメチル水銀の量は書いておらず)ではないかといわれている。200mgが致死量で、5トンだと2500万人を殺せるような量のメチル水銀が流されたという。
水俣湾が汚染で騒いでいたころ、池田勇人内閣は所得倍増計画を企画し、農業基本法を施行して、小農民への保護を打ち切り、都市部への賃金労働者を創出するという事を推し進めていた。農業の近代化や工業の発展にチッソの肥料や塩化ビニールは欠かせないものであった。
この所得倍増計画という名前だけは私も聞いた事があるのですが、高度経済成長の時、時代の流れにのって所得倍増に自然となったものかと思っていました。それが計画的に進められて、工業化のための人員を拠出する政策であったのに驚きました。そしてそれが各地での公害汚染や、現代の生活保護問題、農村での過疎問題につながっているのが恐ろしく、物事の真理はなんでもそうなのでしょうけども、得をするためにしたことには常に犠牲がつきものであり、未来にもつながり続けていく、ということなんですね。



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