2019年08月 近つ飛鳥博物館

〜百舌鳥・古市古墳群と土師氏〜


まとわりつくような湿気を置き土産に、照りつける夏の暑さは足早に去っていった。
過ぎ去った熱気を懐かしむかのように、私の古代への思いはさらに熱くなってくる。近頃、ブーム巻き起こる野見宿禰に関する展示を近つ飛鳥博物館で開催することを見たからである。
当麻蹴速を蹴り殺したという野見宿禰とは一体どういう人物であったのか?野見宿禰の子孫と称される土師氏を考えることで何かのきっかけをつかめれば幸いに思う。

パンフレット ※クリック拡大



土師氏とは?

「日本書紀」垂仁天皇条に、野見宿禰の伝承が記述されています。
当麻蹴速との天覧相撲と、皇后が亡くなった際に殉死の代わりの埴輪を天皇に進言したという伝承です。この野見宿禰を祖としているのが土師氏なのです。
このような祖先伝承を日本書紀に載せ、一族の歴史的正当性を主張できるほどの力を持った豪族だったともいえます。

河内の土師氏

百舌鳥・古市古墳群は土師氏との関わりが強く、古市に「土師ノ里」、百舌鳥に「土師町」という大きな地名が今でも残っています。古墳群の造営に関わったとされる集落遺跡や埴輪窯跡なども近くで発掘されていて、これらを統括・組織していたのが土師氏ではなかろうか、ということでした。

百舌鳥・古市古墳群の展示コーナーでは、主に円筒埴輪や形象埴輪、その破片が展示されていました。その中で特に注目されていたのが、古墳やその周辺に立てて並べていた円筒埴輪を棺へと転用したものや、埋葬の目的のために作られた円筒埴輪(埴輪棺)、それらが進化していった陶棺と呼ばれるものです。

この埴輪棺を使用した墓制の特徴が、墳丘が無く副葬品が少ないというもので、その他の理由もあると思いますが、この墓制が土師氏のものではないかと推測されていました。
また、陶棺に関しては他の有力者へと提供していたように書かれていたのをみると、土師氏という氏族がまるで便利屋の如く使われていたことが思い浮かべられるのではないでしょうか。

この展示コーナーの中で私が気になったのは、百舌鳥古墳群の余部日置荘遺跡で出土した「復古調」と称される古い特徴を持つ円筒埴輪です。
それまでの百舌鳥地域の埴輪製作技法とは大きく異なり、埴輪の終末を考える事ができる資料と書かれていたのですが、自分が見た限りではよく分かりませんでした。これからは円筒埴輪も注目して見ていき、どのような違いがあるのか考えていければと思った次第であります。

誉田白鳥遺跡出土の陶棺破片

北大和の土師氏

北大和では佐紀古墳群の周辺に、土師氏の後裔と称する氏族の故地である「菅原町」と「秋篠町」という地名があります。ここでも古墳群の造営に関わったであろう集落遺跡や埴輪窯跡が発掘されており、河内同様に土師氏が統括していた地域であると考えられています。

佐紀古墳群の展示コーナーでは形象埴輪の破片が多く陳列されていました。この形象埴輪も土師氏に関わる重要なものなのですが、今回はまだ十分に検討されていないそうです。十分でなくてもいいので見解を書いてくれた方が視点が増えて良かったと思います。

ここでの注目展示品は赤田横穴群で使用されていた陶棺で、円筒埴輪のような形ですが、てっぱりも文様のようなものも無く、丸い陶器の蓋がかぶせられておりました。意外とシンプルな姿だったので、王族に使われていたとは考えにくいと思いました。
この赤田横穴群では11基もの陶棺が発見されており、菅原、秋篠地区で大掛かりに埴輪・陶棺製作が行われていたものと推定されていました。そして、その生産方法というものが、それまでの埴輪づくりを大きく省略化した方法なので、製作集団を政治的に設置した地区だと考えられているとのことです。
それをふまえた上で、シンプルな陶棺であったことを考えてみると、王権の力は弱まり、有力豪族に陶棺を供給することで、なんらかの見返りを得て、王としての威厳を保っていたのかもしれないと思わされました。

ここの展示品で気になったものは何気に置かれていた「陶栓」というものです。下写真の左下のものがそうですが、何か栓をしなければいけないようなものが入れてあったのでしょうか?非常に気になります。

秋篠・山陵遺跡出土の陶棺破片

※2019年11月追記※
中国の湖北省武漢市にある盤龍城博物館の写真を整理していると陶栓に似たような展示品がありましたので、下に写真を掲示しておきます。用途が同じかは分かりませんので、博物館などで聞いたり、資料などで見たりする機会があれば追記したいと思います。
下写真の説明文を見てみると、陶器の外側で打つものと、陶器の内側に当てるものと2つで使うもののように書いております。(中国語は分からないので推測)

盤龍城博物館での展示品
(商代の紀元前1600〜前1046、盤龍城採集品)
盤龍城博物館での展示品
(どこで出土したものか記録を失念)

※2019年12月追記※
近つ飛鳥博物館へ訪問した際に図録で確認したところ「陶栓」の記事は書かれていませんでした。
記事は無かったものの下写真の「陶栓」は載っていたので、受付の人に聞いてみたところ電話をして聞いてくれました。
その解答が「陶棺を焼くときに熱が十分に回るように穴をあけた状態で焼く。遺体を埋葬する際には密閉するために栓をする。」という事でした。
ただ、上のものとは少し形状が違うので用途が同じであるかどうかは疑問であります。
赤田横穴群より出土の陶栓

摂津・紀伊の土師氏

摂津では文献での記述がないそうですが、耳原や毛受野など百舌鳥と関連すると思われる地名があり、野見神社や濃味郷があったとされるそうです。
地名だけでは真実味が薄い気がしますが、新池遺跡というところでは、埴輪窯や工房・集落があり、ここが製作から焼成までできる王権直属の官営工房の実態を示すもので、王権と結びついている土師氏も当然関わっていたのではないかということです。

紀伊の淡輪古墳群では百舌鳥・古市で用いられるような埴輪の出土もあり、応神天皇陵からの出土物と同様のヘラ記号をもつものもみられるそうです。しかし、土師氏とは異なる淡輪技法とよばれる技術を使用していて、違う埴輪製作集団がいたと目されているようです。
その淡輪技法の特徴とは「外面にタタキ板、内面に当て具の痕跡。須恵器同様の灰褐色。底部に輪をはめた段差の痕跡。」と書かれておりました。
これを見て、以前、紀伊風土記の丘(記事の真ん中を参照)に行ったときに見た、製塩土器の内面に貝殻を当てて成形する、という説明を思い出しました。

このコーナーでの展示品は少なく、土師氏や王権の影響力の範囲が意外と狭いんじゃないかという気がします。


河内での陶棺

河内地区の陶棺として、飛鳥部や王仁といった渡来系の氏族が勢力を持っていた玉手地区と飛鳥地区が取り上げられていました。

飛鳥地区では横穴式石室に陶棺が使用されていたと推測され、亀甲型陶棺片も出土しているそうです。
玉出地区の横穴群でも亀甲型陶棺が出土しています。

このコーナーでは、飛鳥・玉手地区の被葬者たちは渡来系か肥後の石工集団とのことで、それらを土師氏が統括したのではないかと、いう予想が書かれておりました。しかし、私が感じた事は、王権が土師氏を使い渡来系の有力者達から富を得ようとしているのではないかと思いました。統括した集団に対して、陶棺という立派なものを提供するのだろうか?と思う次第であります。

今回の目玉商品・赤田横穴群と玉手横穴群の陶棺

終わりに

最後の展示として、埴輪製作が終了した後のことが紹介されていました。「土寺」と書かれた墨書土器などから土師氏にも寺院を営む集団が出てきたと考えられ、新しい時代へとつながっていくのですが、名残として、大和・河内の調では土師器が納められていたそうです。



新館長の講演会

講演会のちょっとした感想

新館長である舘野氏の講演会に参加してきました。大盛況の講演会で定員200名では収まりきらず、会場の外に、入りきらなかった人達の席も設けられておりました。

講演内容としては、垂仁天皇の伝承から始まり、皇族らの殯や諸陵寮をつとめ葬送儀礼に密接に関わって来た土師氏が、やがて、土師氏・菅原氏・秋篠氏・大枝氏に分かれ、桓武帝の外戚となったことで喪葬職から解放されていったという、王権との関わりを日本書記と続日本記からの記事を抜き出して推測していくというものでした。
その締めくくりとして、「江談抄」の一節が紹介されており、「菅家、本は土師氏なり。子孫多しといえども官位至らざる事」という題で、「埴輪を使用したことは、万民には恩を与えたといえども国家には不忠であったとして、官位を与えられることが少ない」と、記されていて、土師氏が王権、またはその周辺から低く見られていたことの一端が垣間見えます。

いくつか感じた疑問点として、
・当麻蹴速との争いは二上山の凝灰岩の争いだったのか?
・菅原氏への改姓の時の「吉凶相半ばしていたのに、今は凶事ばかりだ」という説明は、本来は吉事もやっていたということであり、それはおそらく相撲の節会ではないのか?
という、この二つの事が大いに気になります。

新館長は丁寧な人のようで、配布資料がかなり読みやすく書かれていました。講演も丁寧で脱線することがなく淡々と話し続けていたのですが、何故か時間オーバーになっていたのは少し不思議でした。
講演の最後の締めで、土師氏という氏の成立は古墳造営よりも後だったと説明され、今回の展示品の埴輪を作っていたような人達はプレ土師氏という、もっと小規模な集団だったというふうにおっしゃっていました。その理由も時間があまりなくサラッと言うだけにとどまっていましたが、この最後の部分をもっと長くしゃべって欲しかったと思います。


今回の特別展示も、宮内庁書陵部以外のものは写真撮影が可能でした。これが新館長の方針なのかは分かりませんが、講演会に参加した時などは時間がないことも多いので、今後も続けていって欲しいと思います。



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